青色のprigione

テストやっと終了。本日のテストは前日にビールを飲んで寝てしまい結局朝も起きれないくらいに2科目とも諦めていたわけですけど、思っていたよりも書けた。やはりネガティブに考えすぎていたのかもしれない。しかし書けたと思っても実は全然書けていないのかもしれない。的外れのことを書いていたのかもしれない。でも終わったんだからもうどうでもいい。さて、残りはレポート1つ。適当にやろう。
図書館で中谷美紀のアルバム「ABSOLUTE VALUE」を借りる。長きに渡った(といってもそれほどでもないけど)テストが終わったときにふと、「砂の果実」という、同名のドラマと共に人気の出た昔のヒット・ソングを思い出し、何となくその曲が聞きたくなったからだ。「ABSOLUTE VALUE」というアルバムのタイトルからすでにピュアーな中学生の脳天にクリティカルに突き刺さって、絶対的な価値というものがこの世の中に存在するのだ、などと純情少年純情少女をカン違いさせてしまいそうな感じだけれども(このアルバムが出た頃、僕は中学生だった)、7〜8年ぶりにあらためて聞いた「砂の果実」という曲は、そんな妄想爆裂系中学生を従わせるのに十分なだけのエネルギーを持っているように思えた。思わず目を背けたくなってしまうくらいに素直すぎる歌詞を何となくやる気のない素っ気ない声で中谷美紀が歌い、そしてそれを坂本龍一御大が曲で彩ることによって全体に何とも言えぬ虚ろげな雰囲気が漂っている。真っ白な部屋の中にガラスで作られた1辺の長さが1メートルくらいの立方体のケースが置いてあって、その中に制服姿の女の子が体操座りをして座っている。まるで自分がどこかへ行ってしまうことを怖れているかのように彼女はギュッと両腕で膝を抱えて小刻みに震えながら、時折両手で耳を押さえて首を左右に振り叫び声を上げる。が、その叫び声はガラスの中でただ反響するばかりでどこにも行かない、どこにも続かない。みたいな、そんなイメージ。……って、ありがちだな。まあでも、そういうありがちなイメージを想起させるようなステレオタイプな部分というのは、ヒットさせるためには重要な要素なんだろう。例えば歌詞の、

生まれてこなければ 本当はよかったのに‥‥

という部分とかね。こういうことはきっと多くの人が一度は思うことなのではないだろうか。僕自身は、このようなことを自分の本心から思ったことはないけれど、プラトンの「死は魂の消滅ではなく、死ぬことでようやく肉体という名の牢獄から魂は解放されるのである」という言葉を聞いたか読んだかしたときに、「だったら初めから生まれてこなければいいじゃないか」と思ったことはある。でももう既に生まれてしまっているからとりあえずそこの部分はしょうがないし、死ぬのは怖いので(というか死ぬことよりも死の前に現実に起こりうる可能性の高い、肉体的な痛みを伴う苦痛が怖い)、今度は何とか生きている世界に溶け込まないといけない。しかし、またそこで己の良心というものが、成長の過程で世界と衝突する。憤りを感じる。それも「砂の果実」の中にはあからさまに描かれている。

あの頃の僕らが
嘲笑って軽蔑した
恥しい大人に
あの時なったんだね

「恥しい大人」というのは良心というものが通用しない社会を受け入れた人間のことで、「あの頃の僕ら」というのはそんな社会を受け入れたくない少年少女のことだと思われる。僕もそういうことをかなり思っていた人間だけれども(この日記の文章を見ると、いまだそう思っているのかもしれない、ははは)、それは社会というものを誤解しているからだと、今は考えている。以前読んだ寺山修司「家出のすすめ」の中の二章・悪徳のすすめの中に社会とはどのようなものなのかというのが簡潔に上手くまとめられている。詳しく言えば、社会というか、社会を規律する法律についてですが。

法律とはたいてい、その社会の体制に適合してつくられるものであって、内なるモラルとはまったく関係がない。つまり善悪というものを、人間の道徳で測ろうとすると、法律は絶対ではない……ということです。
寺山修司「家出のすすめ」より)

こういうことが、まだ中学生くらいだと分からない。下手したら大学生だって分かってない。学校だと法律というものがあたかも絶対的なものであるかのように教えられるからである。でも例えば父親が殺されたとしてその復讐としてその父親を殺した相手を自分が殺すことが赦されるだろうか、という問題を考えてみる。今の社会でそのようなことは法律に従って当然に認められない。だから現代において松本次郎フリージアのような漫画が異質な漫画として成立するわけである。しかし、これが戦国時代の武将だったりしたら、それは「正しい」ことになる。と、つまりそういうことである。「正しい」というのは絶対的なものではなく相対的なものなのだ。法律や、法律によって規律される社会というのはその程度のものでしかないのだ。社会という常に変化するものに「絶対的な価値」などを期待するほうが間違っているのである。
なんか全く何を言いたいのかわからないしまとまらなくなってしまってますけど、要は、中谷美紀の「砂の果実」はこういうことを色々考えさせられてしまうくらいにビビッドに純粋で純情パインですよみたいな、そんな感じです。