「知識」の獲得

養老孟司「人間科学」の一部分を読んだところ、なかなか興味深い内容だった。とくに、「表現(言語・美術・音楽等)というものがある人の脳の中で作られて、それが他の人の脳の中で『翻訳され』て情報になる」、というあたりを読んで、自分の中で曖昧だった言語・情報・知識といった言葉がとても上手く整理されたように思う。表現が翻訳されることによって脳の中に生じた情報は、さらに脳の中で自らのフィルターを通して理解されることによって知識になる。だから、情報と知識というものは違うものだということになる。僕自身このようなことを漠然と考えていることが割とあったのだけれど、上手いこと言葉には出来ていなかったので、この文章はとても参考になった。
以前、「(自分の価値判断に基づいて)選択していくこと」というのがこれからの(僕にとって)重要だ、と書いたような記憶がある。僕が自分の価値判断に基づいて選択できなくなってしまった理由、言い換えれば、自分の価値判断ではなく他人の価値判断に基づいて自らの選択をしてしまうようになってしまった理由として、僕はインターネットの普及をその大きな原因の一つなのではないだろうか、と考えていたのだけれど、今回の言語・情報・知識という言葉の整理によって、もう少し詳しく説明できるようになったのではないかと思う。ウェブ上には世界中の様々な人々の脳内で作られた表現(言語・美術・音楽…etc)が存在していて、それら表現を脳内で翻訳することでそれらは僕の脳の中で情報になる。本来ならそこでその情報を自分のフィルターを通して(自分の価値判断に基づいて)理解することで知識へと昇華する必要があるのだが、それをする必要がない場合にはそれは為されない。情報を知識へと昇華することはエネルギーの消費を伴うことだからである。そして、今まで生きてきた大抵の場合において、僕はそのようなことをしてこなかったように思う。では、どうしてそれをする必要がなかったのかといえば、僕は現在大学に在籍しているが、その大学までの過程において、「情報」ではなく「知識」というものが要求される場面が明らかに少なかったからではないかと考えられる。学校の勉強でも友達付き合いでも何でも、世間的模範解答としての情報が表現化されてマスメディアや教師、親などから伝達されるため、それら表現から得た情報を自分で理解する必要はないからだ。僕はただ情報貯蔵庫としてそれら情報を脳の中にストックしておきさえすればよいのである。例えば受験勉強なんてものはまさに情報貯蔵庫適正試験そのものであり、「受験は要領」などの著書を書いている精神科医の和田秀樹氏が、自身の数々の受験関連著書の中で叫ぶ「数学は暗記だ!」といった言説は、「知識ではなくとにかく情報を蓄えろ、受験なんてそれで乗り越えられるんだから(知識なんて必要ないんだから)」という意味に捉えることが出来る。そしてこうして情報貯蔵庫として生きてきた結果として、情報を知識へと昇華するための能力が不足してしまったのではないだろうか。知識がなければ自分の価値判断なんてものが生まれるはずもないし、それに基づく選択なんてものができるはずもないのである。
だが、ここで「けれどもマスメディアや教師、親などは昔から存在しているのだからインターネットの普及だけをその原因とするのはおかしいのではないか」という意見があるかもしれない。確かに、マスメディア(新聞・テレビ・ラジオ・出版等)などはそれなりに昔から存在しているし、それらによる影響もないとは言えないだろう。しかし、それらとインターネットを比較したときに、インターネットが手軽さ、双方向性という面でそれらマスメディアよりも優位であるということは、情報革命だ何だと騒がれた時に散々言われたことなので、もはや言うまでもないことだろうと思う。検索エンジンを使えば自分の望んだ時に自分の望む情報を簡単に見つけることが可能なのである。しかもそれらは世界中の様々な人々の様々な表現を用いて語られている。水は低きに流れ、人もまた易きに流れるため、情報だけを得て知識というものを得ようとしなくなってしまうのである。大学生のレポートのコピペ問題などもそのように易きに流れた結果だろう。ウェブ上の情報をA4のコピー用紙へ変換してレポート終了。僕は勇気がないのでそういうことは出来ませんが(“要領”が悪い!)。もしかすると情報=知識と認識しているのかもしれない。あるいは情報検索能力=知識。でもそれだったらgoogleさえあれば人なんて要りませんね。まあ、googleを使う人は必要ですけど。
ただのハードディスクに成り下がらないためにも、情報を知識へと昇華させていく訓練をしていかないといけない。自分の価値判断に基づいて選択すること以前の問題だ。