「ゆとり」を身につけるって、結局どういうことになるんだろう?

説明会やらテストやらで最近よく渋谷に行くのだが、埼京線ホームから出口までの距離があまりにも長すぎて、埼玉県民は都内に足を踏み入れるなと言われているような気がしてならない。新宿でも埼京線ホームだけなんか変な場所にあるし。あと、京葉線直通武蔵野線で東京駅まで行った場合もホームから駅中心まで非常に遠い。歩いて10分くらいかかる。え、これ何てアパルトヘイト? そんな感じ。まあそんなことを思いながら今日は京浜東北線に乗った。京浜東北線はどうやら差別されていないようだ。
徐々に選考も進んできた。絶対落ちたと思っていたSPIが何故か通過したり、同様に喋りすぎたと思っていた面接が通過したり、逆に余裕だろと思って提出したESで落とされたりしている。ほとんど同じ内容で書いたESでも別のところは通ったりするのに。謎だ。結局相性だよ、などとサークルの先輩にも言われたし、僕自身もそういうものだろうと思っている。が、選考に通過したらそれはそれで嬉しいし、落ちたらたとえどんなにどうでもいいところでも凹む。ということは多分まだ自分の中で「相性」という言葉だけで割り切れないところがあるんだろうと思う。相性だ、と割り切れば楽になるのは何となくわかるのだが、でも、割り切れないという。む、難しい……。今日行った懇談会で一緒のテーブルになった人と話をしたら、なんか多いときには1日4社とか回ったりするそうで、今までにもう100社くらい回ったらしく、もうすでに2社から内定を頂いているそうだ。凄い。そのエネルギーを少し分けて欲しい。でもそれだけ回って沢山受けているということは、それだけ落とされてるということでもあるのかもしれない。それは聞かなかったから分からないけれど。多分彼女はもう「割り切り」が出来ているんだろうと思う。僕ももっと様々な選考を進めていけば割り切ってサバサバとした活動をすることができるようになるだろうか。っていうか出来ることならそこまで至る前にどこかに決まってくれるといいのだが。来週は既に2個面接が入っていてそのうち一つは最終なので、これが決まってくれれば気分的にはかなり楽になるので頑張ろうと思う。
そして明日は恐怖の成績発表だったりする。後期テストがあまりにも出来なかったのでマジで怖すぎる。落としまくりで留年なんてなった日にゃ、就職活動どころの話ではない。当然すでに結果は出ているんだろうが、それでも祈らずにはいられない、そんな心境。
しかし最近就職活動のことしか書いてないな。電車内で本は割と読んでいるのだが。最近読んだ本の中では、詭弁論理学 (中公新書 (448))が抜群に面白かった。地元書店で「名著!」と書かれてプッシュされていたので買ってみたのだが、確かに名著だと思う。この本の目的は、

なまじ「議論上手」になって人に嫌われるよりは、天分を生かして「話上手」になるか、あるいは「勝てなくてもよい」という前提で議論を楽しむ「ゆとり」を身につける
野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書)p鄯〜鄱より

ということだそうだが、この考え方は、僕が感じている「イマドキ」の考え方に近いなあ、と思った。などと書いていて、今週のスピリッツに載っていた日本沈没の小野寺の台詞を思い出した。

あらかじめズタボロになるのを回避した連中が、
反体制だエコロジーだ自分探しだロハスだ、
あれやこれやと消費文化乗り継いで、
普通の言葉じゃ無力なもんだから言論テロみたいな事始めてみたり、
地獄も見ないうちから一足飛びにジョン・レノンにでもなったつもりでモノを言い始める。
(中略)
最悪なのは、そうやって一人一人がやらかしてる事の積み重ねがどれだけ世界の中で孤立を招いているか気づいていない事…
いや、
気づいているのに誰も何もしていないことでしょう?
一色登希彦小松左京原作『日本沈没』 第10話より)

なんか似てません? その姿勢が。しかしこの引用文の台詞がわずか2コマに書かれているんだから凄い。日本沈没は面白いので今度小松左京の原作の方にも手を出してみようと思う。