繰り返し

今から4年ほど前、そう、まだ池袋の某予備校に通っていた頃に、父親の知り合いの娘が大学に退学届けを出したという話を聞いた。その人は4年生だった。僕は予備校の授業に出たり出なかったりしながらも、一応大学というものに入るべく勉強していたので、そのような話を聞いて、「退学するとかありえない、しかも4年でなんて。あと少し我慢して卒業すりゃいいのに」と、そう思ったものである。しかし。自分が大学4年生になってみると、その人の気持ちが分からないわけでもなくなってきた、というかその気持ちが大変よくわかる。今、辞められることならいつでも辞めたいと思っている。学年とかは関係ないのだ。人間、嫌なものはいつになったって嫌なのである。でも、卒業して就職しないと間違いなく終わる。そのような考えのみが自分をつき動かしている。それ以外に大学に通う動機はない。もちろん大学を辞めたって働く場所なんていくらでもあるだろうが、例えば工場での肉体労働の話とか聞くと、絶対に無理だな、と思う。かといって大学での「お勉強」に精を出す気もさらさらない。我ながらなんと終わっているのだろうか。何にも身につけず、何にもしない、いや、何も出来ない。やる気もない。そんな無能な人間が弾圧されるような時代でなくて本当によかった。
三木清の人生論ノートという本の中に、「希望について」というエッセイがある。

絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間にとって特徴的な状態である。
三木清『人生論ノート』より)

本当にそうだなあ、とこれを読みながら思う。何もかもを捨て去ることができず、逆に自信を持つこともできない。つまり僕はどこへ向かってもスタートを切ってすらいない、ということになるのだろう。一昔前には徒競走なんかで何度もスタートを切っていたはずなのだが、いまや、どのようにスタートすればよいのか忘れてしまった。ただ、突っ立っている。立ち尽くしている。あらぬ方向を見やりながら。
この本の書かれたのは戦前である。今から50年以上も前のことだ。50年前以上も前に「それは近代の主観的人間にとって特徴的な状態」とすでに言い切ってしまっているのは凄いなあ、と思うと同時に、そんな昔からわかってるんだったら、もっと対処法みたいなものがあってもよいのではないか、などと思ってしまう。先日から読んでいる丸山眞男の『日本の思想』の冒頭の方に、

思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない「伝統」
丸山眞男『日本の思想』より)

が日本にはある、と書かれており、それゆえ「何度も同じ問題を繰り返す」ために思想的座標軸が形成されないのだ、そうである。これは思想だけじゃなくて他のことにもあてはまるような気がする。例えば、希望について、とか、そういうことについても。だから、おそらくどうやってスタートを切ればよいのか、ということについて、知識のない自分が何かを書くまでもなく、過去に幾度となく論じられていることだろう。軽く楽しんで消費してなくなってしまうイマドキの本ばかり読むのではなくて、もっと昔の本も読もう、と思う。そうすりゃそのうちスタートの手がかりもみつかるかもしれない。