グラン・トリノ

たいへんに渋い、いい映画だった。歩いている姿だとか、顔を赤らめ歯を噛み締めるようにして怒っている姿だとか、玄関先で椅子に座ってビールを飲んでいる姿だとか、庭の手入れをしている姿だとか、とにかくコワルスキーの一挙手一投足のすべてが計算されているかのごとく渋く、カッコいい。ただまあ対岸の火事だからそういうことが言えるのであって、実際にかかわったらきっとかなりウザイだろう。彼のことをクソじじいと言ってた孫の気持ちはよくわかる。
コワルスキーは生涯ずっと自分に自信がなかった、というか、過去にあんなことをしてしまった自分が信じられないというのが、観ていてとても伝わってきて、たびたび泣きそうになった。特に健康診断を受けた後に息子に電話するシーン。あれは切ない。弱々しすぎて、いたたまれない。戦争で13人かそれ以上の朝鮮人を殺し、その中にはタオと同じ年頃の少年もいて、そのことをずっと引きずりながら、でも誰にも相談することもできず、ただただフォードの自動車工としてグラン・トリノをはじめとする車を組み立ててきた、そのコワルスキーの姿はどこまでも孤独だ。あのカッコいいグラン・トリノを愛でていたのも、「こんな超カッコいいグラン・トリノを俺は組み立てたんだ。だから、俺だって、あんなことをした俺だって生きていてもいいんだ。きっと、そうなんだ」と、無意識のうちで自らを納得させたかったんだろうと思う。
最後のシーン、あれはまあコワルスキーは確信犯的にやったんだろうけど、きっとそれは彼のまさに命そのものとでも言うべきグラン・トリノを渡したいと思えるような人に出会えたからなのであって、たとえそれがなりゆきとしてそうなったというような種類のものであったとしても、人生なんて自らの思い通りにならないことがほとんどなのだから、それでよいのだと思う。
僕もコワルスキーのような渋い男になりたいと思ったので、さしあたっては、たまっている洗い物を片付けようと思う。渋い男の住む家には、きっと洗い物の山などないだろうから。ED曲。いい曲だ。