飲み屋にて

「最近、楽しい、ってのが何だかよくわからないんだよね」ペール・エールを飲みながら彼は言った。そうだね。そう言って僕は目の前のギネスを飲み、そしてもう一度、そうだね、と言った。夕暮れ時、駅にほど近い蕎麦屋兼飲み屋のような店を目当てにやってきたもののまだその店は開いていなかったので、時間潰しのために近くにあるキャッシュオンのパブチェーン店に入り、2人ともちょうど2杯目のグラスに手を出していた。開店したばかりの店内には他の客はおらず、小さな音で知らない曲が流れていた。
「単調さというのは安心なんだけど、でも、確実にダメになっていくような気がする。だんだんと何も考えなくなっていくんだ」彼は自分の仕事の話をしていた。僕はその通りだと思った。僕自身、単調で変わり映えのない仕事にすっかりうんざりしていたからだ。

この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はその二つを区別することができない。

村上春樹海辺のカフカ』に登場する大島さんは、そんなことを言っている。この部分はなんとなく説得力があったので印象に残っている。ただ、自分自身、大島さんの言うように退屈と飽きるということを区別することができていない。だから、うんざりしているからといって、どうしたらよいのか、どうすることが自分にとってよいのか、ということがわからないのだろう。そういう意味では、変わり映えのない仕事にうんざりしているというよりは、目の前のことがらに対してどのように対処するのが自分にとってよいのかということがわからない自分自身へもどかしさを感じている、というほうがより適切かもしれない。自己責任の議論を持ち出すまでもなく、やはり自分自身の問題なのだろう。フィッシュ・アンド・チップスを食べながらそんな趣旨の話を彼にすると、そうかもしれない、と言った。「何も選んでこなかったから、今こうなってるんだよ、きっと。お互いにね」そう言うと彼は時計をみやり、そろそろあの店も開いているだろう、と言った。僕たちは店を出ることにした。
地下にあるその店から出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。ずいぶんと時間が経ってしまったように思えたが、実際にその店にいたのは1時間ほどでしかなかった。通りの向こうにある目当ての店からは明かりが漏れていた。開いているようだ。よかった、と彼は言った。「あそこは蕎麦もつまみもなかなか美味しいんだよ」
僕たちは2人で小海老のから揚げと出し巻き卵と浅漬けを食べ、その間に久保田と八海山を1合ずつ飲み、そして締めにもりそばを食べた。食べ物もお酒も美味しかった。音楽やなんかについて他愛のない話をした。店を出ると夜9時を回ったところだった。まだ少し早いけれど明日のこともあるし今日はこのあたりで、ということで駅で彼と別れ、家に帰った。