ヤッパリ過去ヲ殺セ

暇なのでハードディスクやCD-Rを整理していたところ、過去にサークル文集に載せた文章や浪人時代に暇つぶしで書いて某所に投稿したりしていた一人称小説のデータの束を発見した。
小説のほうは何とも痛々しく、当時の僕の精神状況がもろに表れているなあ、と感じる。それこそルサンチマンだ。痛い。実に痛々しい。
一方サークル文集に載せた文章は、初期は全く普通なのに、後半になるにつれて痛さが増している。僕は退行しているのか。先祖がえりしているのか。一番最近のやつ(去年の10月くらい)は題名からすでにストレートで「『痛い』ということについて」である。終わっている……。
でもせっかくなので再利用することにする。リサイクルだ。先日京都議定書も発行されたし、やはりこれからはエコロジーの時代なのである。というわけで以下コピペ。一部表記上の訂正はしたけど、あとはほとんど原文のままです。



「『痛い』ということについて」
 ここまで色々と痛いことを書こうと思って書いてきたわけだけれど*1、読み返して思ったのが、痛いことを書こうとしていると、いつのまにかセカイ(エヴァなどのいわゆる『セカイ系』を意識してこの表記にした)について書いているということだった。
痛い、という言葉をちょっと考えてみると大体二通りの使い方に分けられると思う(普通に怪我をして痛いとかそういうのはここでは除く)。一つは例えば萌えアニメ双恋とかシスプリとか?このへんは僕はよく知りません)とかフィギュアとか漫画とかを愛でる人間を指すときに用いる方法。もう一つは例えば愛だとか夢だとか希望だとかを力強く語るような人間を嘲るような感じで指すときに用いる方法である。僕は、自分自身は多分前者に分類される痛いタイプだと思っていたのだが、今回書いた文章を見ると後者の血も幾分混じっているようである。混血種だ。サイヤ人と地球人の混血は凄い戦闘力を発揮するとかどうとかべジータが言っていた気がするが、痛さとまた別の痛さが交じり合ったら、それはもうさぞかし痛い感じになるのではないだろうか。痛さが痛さを呼び、そしてさらなる痛さを紡ぎだす。そうして痛さの螺旋階段をするすると下っていくのだ。ああ、恐ろしい……。そんな自分の痛さに思わず頭も痛くなってくる。
だが、ちょっと考えてみると、そもそも先の二つの分類方法が多少微妙なんじゃないかとも思えてきた。というのは、アニメやゲーム、そして漫画ほど、直接的に愛や夢や希望を語ろうとしているメディアは他にないのである。そうなると分類などはじめからする必要がなく、アニメやゲームや夢や希望が全てが大きな「痛い」という枠組みに覆われるのだ。僕だけが激しく痛いわけではないのである。よかったよかった。……あれ、別によくもないか。
痛いということが多少分かってきたところで、また次の問題が浮上してくる。それは、一体何がどう痛いのか、という問題である。そんなのオタクそのものに決まってるだろ、という声が聞こえるような気がする。確かに世間一般の認識ではそうだろう。だが、僕はここに大きな落とし穴があることを発見したのである。次段落で具体例を挙げて説明してみることにしよう。
ここは東京都S区にある某私立大学。その中にある学生会館の一室で、A君が午後6時になったのでガンダムSEEDを観始めた。そして「ラクスたんに弄ばれたいハァハァ」などと言っているところに、ちょうどB君が入ってきた。SEEDを観てハァハァ言っているA君を見て、B君は、「うわっ、痛たたた」と思わず口から漏らした。はい、ストップ。ここで問題。痛いのはA君、B君のどちらであるか? 誰もがA君と答えるだろう。しかし、実際にここで痛いのはB君なのである。考えてもみていただきたい、SEEDを見ているA君が一体何を痛がるというのか。彼は脳内でラクスとの快楽に溺れているかもしれないが、それは痛いという感覚からはむしろほど遠いものだろう。痛いと感じているのはA君ではなくB君の心なのである。つまり、B君が痛がっているのだ。
右の説明によって痛いのはB君、つまり痛いという発言をした本人が痛がっているのであるということが論理的(笑)に証明された。そうなると自然な流れとしては、痛いという発言をした本人はどうして痛がらなければならないのか、その痛がる理由が必要になってくる。そこでその理由を探るため、B君を痛がらせる理由を作ったA君に注目してみたいと思う。
A君は普段からアニメやゲームを好み、学校に来るよりも家にひきこもって一人で遊んでいることの方が多い。そしてゲームやアニメ、漫画からこれでもかと浴びせられる愛や友情や夢に対し、大抵は斜に構えて受け流すが、時にはそういったものに感動を覚え、時には涙する。周囲からキモイだのなんだのと言われていることは知っているが、自分が楽しいことをして何がいけないのか、と思っている。
この中にB君を苦しめるものの答えがある。一体何だろうか。僕は、それは「自分が楽しいと思うことをするという姿勢」なのではないかと思う。大抵の人は、自分が楽しいことよりも周囲の目や評判などを気にすることのほうが多いような気がする。でもそれは当然のことである。何故なら、日本においてはそういう風になることが「大人になること」だとみなされているからだ。常に周囲に目を配りながら枠の中からはみ出さないように、他人との内輪差をできるだけ小さくしようとしながら生きることを、小中高と教えられ続けるのである。そういう風に育てられたしまった人間は、たとえ自分がその枠から出たいと思うことがあっても、そう簡単には抜け出せなくなってしまっている。そんなときに、A君のように自分が好きなことをやることの出来る人間に出会ったら、自分と彼との生き方の違いに戸惑いを覚え、痛い、と感じるのではないだろうか。そして、その痛さというものを認めてしまうと世間内において生きにくくなるので、それを誤魔化すために、それから目を逸らすために、自分が痛いということではなくA君が痛いのだ、というような主体の転換を無意識下で行っているのではないだろうか。こんなことをいうと、すぐに「みんながみんな世間という枠から出たいと思っているわけじゃないだろうし、好きなことをやっている人もいるだろう」などという人がいるが、そういう人はとりあえず落ち着いてもらいたい。何も僕は全員が全員A君に対してそういう感情を抱くなどと言っているわけではない。そうじゃない人ももちろんいるだろう。だが、自分の好きなことをやれている人間は、A君を見たときに「痛い」などという発言をしないのではないかと思う。だって、自分が好きなことをやれているのに、何で他人に干渉する必要があるのか。まあ興味本位というのはあるだろうが、興味本位なら「痛い」などという言葉はまず使わないだろう。だから、もしある人がA君を見たときに「痛い」と思うのであれば、それはA君に対するある種の羨望のようなものがその人の根底にあるのではないか、と僕は考えるのである。
このような分析をしてみると、オタクと言われるような人間が、近年セカイ系(個人同士の話だったものが、いつのまにか世界の命運を担ってしまっているような物語のこと)の話を好み、そうじゃない人間がそういったものを否定する傾向にある、その理由も見えてくる。
オタクが自分を重んじ、そうじゃない人は集団を重んじる。これは言い換えれば、戦後日本に流入してきたアメリカの個人主義VS日本の昔からの集団主義という構図そのままである。オタクにとっては世界というものは自分のための舞台であるから、物語の中で主人公と恋人の2人の行動が、たとえ世界全体に影響を与えたとしても、何ら問題なく受け入れることができるのである。一方オタクじゃない人々にとってはそうはいかない。だって、世界は集団によって成り立っていると考えているから、個人間の物語が世界全体に影響を与えるなんて話を到底受け入れることなんて出来ないのだ。出る杭は打たれる世界なのである。
さて、ずいぶん長くなってしまった。「痛い」ということも少しはわかったような気がするので、そろそろ終わりにしたいと思う。最後に一つ。ここまで読んで、お前はオタクを肯定するためにこの文章を書いたんだろ、みたいな感想を持つ人もいるかもしれないが、それは完全な誤読である。そういうふうに取った人は、多分、好きなことがやれている=オタク=幸せ、というようにこの文章を読んだのだろうと思うが、それは間違いである。好きなことをやれているということと、幸せであるということは必ずしもイコールでは結ばれないのだ。だから好きなことをやれていても不幸な人もいれば、好きなことをやることが出来なくても幸せな人もいるのである。僕は好きなことがやれて幸せな人間になりたい、と日々思っているが、今のところ上手くはいっていない。
ここまで書いて最後に推敲してみて、やっぱり自分は痛いなあ、としみじみ思う。……ん? まてよ、自分が自分を痛いと思ったら、それは、自分が好きなことをやれているということを、好きなことをやれていない自分が心の奥底で羨ましいと思っている……? しまった、こんな自己言及のパラドックスが最後に出てきてしまうとは。もう僕は痛々しいことを考えることに疲れてしまったので、あとは興味のある人だけ考えてみてください。
終わり。

……うわぁ。なんかあらためて読んでみるとなんともまあ。オタクとオタクじゃない人間を個人主義集団主義の対立として捉えていることこそセカイ系の思想のような気がする。っつーかそれ以前にすぐにとある問題を大きくしようとするのは僕の悪い癖だと思う。問題ってのはほとんどの場合においてそんな大局的なものじゃなくてもっともっと個人的なことなんだよ。うん。

*1:実際はこの前に痛い文章がいくつか書いてある。