理性的な人間は財布を忘れない?

朝から全授業に出る気満々で、1限に出席すべく7時半に家を出た。空を見上げてみれば昨日までの曇りがちな天気とは打って変わったような快晴だ。こんな天気ならテンションだって嫌でも上がってくる。駅改札を通り抜けるとちょうど電車が来ていた。運もいい。すかさずその電車に滑り込んで吊革につかまりながら電車の揺れに身を任せる。僕が普段使っているこの電車は、おそらく東京近郊で最も揺れる電車なんじゃないかと勝手に思っているのだけれど、その揺れが何ともいえない心地よい眠りを誘ってくる。2つ先の駅で目の前の人が降りた。ラッキー、とその席に座る。が、何となく違和感が。ん?何だろ。そう思ってジーンズの後ろのポケットを触ってみるといつもそこに入れているはずの財布がない!はぁ?何だよそれ!え、マジで?マジですか? 焦る。ひたすら焦る。別のポケットや鞄の中に入れた可能性もあるんじゃないかと思って探してみるけど見つからない。やばい。どっかで落としたんだろうか?駅か?駅に電話してみようか?あーでもここ電車内だしなあこんなに混んでたら迷惑だ。でも緊急事態なんだから仕様がないんじゃないか?いやあるいはもしかするとスリにでもあったんじゃないか……?などとテンぱって色々と考えていたところで、ふと我に返り「家に忘れてきたのでは?」という考えが頭に浮かんだ。そうだ。その可能性が一番高い。まだ家に人のいる時間だったので、メールで僕の財布の有無を確認してもらったところ、パソコンデスクの上に置いてある、とのこと。ふうううううううう。嘆息。危なかった。財布無くしてたら給料日まであと1週間どうやって生きていけばよいのかわからなかったよ。それにもし財布を駅に落としていたとしてそれが見つかったとしても、身元確認のカードを探す最中に財布の中に入ってるCURE MAIDのフライヤーとか虎の穴のポイントカードとかアニメイトのポイントカードとかを駅員に見られてしまい、僕が財布を引き取りに行ったら「ああこいつヲタクでメイド喫茶とかも行っちゃってるんだな可哀相な子」みたいな視線を駅員に浴びせかけられるなんてガンパレード・マーチでもあるまいしありえないっ!本当に危ないところだった。気づいてから問題解決までわずか5分くらいのことだったけれど寿命が縮んだ気がした。とりあえず素晴らしい老後を迎えるためにも、家に帰ったらCURE MAIDのフライヤーは財布から抜いておこうと思う。ポイントカードは抜かないけど。
財布の問題は解決したものの今度は金がないために昼飯はおろか飲み物すら買えないという何ともちっぽけな問題に直面してしまった。誰かに借りるかなあでも普段昼飯食べないときもあるし別にいいかな、とか何とか考えながら100円くらい入っていないかと思って鞄の中を探してみたところ、去年の年末ジャンボ20枚が奥底に眠っているのを発見。300円×2しか当たらなかったからそのうち換金しようと思って鞄の中に突っ込んでおいたものです。まさかこんなときに役に立つとは……。昼休みに換金して無事食事をすることが出来ました。こういう場合を想定して、300円しか当たらなかったらまた鞄に入れておこうと思います。って、それよりも財布を忘れんなという話ですね。その通り。
しかしそれにしても財布を忘れるなんてここ1年以上ないことなので自分でも驚いてしまった。フロイトの著書「精神分析学入門」で語られているしくじり行為の中で、置き忘れについても語られている。それによると、物を置き忘れることは単なる忘れたということではなくて実際は何かをしたくないという意図がその置き忘れという行為を生じさせているのだ、ということらしい。それを信じるとすれば僕は財布を忘れてまで大学に行きたくなかったということなのか。ふざけんな。そんなの馬鹿げてる。大学に行こうという気になった日に限って財布忘れなくたっていいじゃないか僕よ。無意識下の意見なんぞに惑わされるわけにはいかないので、これからは財布を忘れないようにしよう。
……でもしくじり行為の理論が馬鹿げてると思っていても、やっぱりフロイトの言ってることも正しいかな、とか思ってしまうこともあるから世の中って難しい。例えば、サークルで自転車レースみたいなことをやったりするんですけど、珍しく僕がやる気になったときに限ってパンクするとか。偶然と分かってはいるものの、こういうことが連続したりするとそこに因果関係があるんじゃないか、と思ってしまうのもおかしいことではないですよね。実際僕も生活の中で度々そんなことを感じます。だけど、それを認めてしまうことには自分としてはどうにも納得がいかないという。で、なんかもやもやとした気分が残る。
他にも例えば僕はSPA!という雑誌のキャッチコピーとか特集を電車内で見るたびにめちゃくちゃ品のない雑誌だなあと思って嫌ってるんですけど、でもたまに気になってつい本屋で立ち読みしてしまうという。それで「ああやっぱり読まなきゃよかったな」と思ってこんな雑誌を読んだ自分が恥ずかしくなってくる。で、もう読むまい、とそのとき思うんですけど、またちょっと気になってしまってつい読んでしまう。それの繰り返し。おそらく「SPA!なんて読んじゃダメだ」というのが僕の理性としてあって、一方「SPA!正直ちょっと気になる」というのが僕の感性で、それらが僕の中で常に対立しあっているのでしょう。
僕は数学の出来る人間や論理的に物事を捉えられる人に憧れるような人間なので、頭では理性的な人間になりたいと思っているのですが、残念なことに自分はあまり理性的な人間ではない。それゆえに理想とする「理性的な自分」と現実の「理性的でない自分」のどうしようもない隔たりに凹んだり悲しんだりしている。そんな気がします。大学に行けばその隔たりを少しは埋められると思っていたんですが……。期待しすぎですね。全く。
結局今日は授業は全部出ましたが1限以外睡眠学習。寝る子は育つと言いますが、残念ながらもう子供とは言えない年齢なので育ちません。残念。じゃあ寝る大人はどうなるのかといえば、老いていくだけ。なんか脳の働きって20歳をピークに年齢とともに低下していくらしいですよ。でも、日本豆腐協会によると、豆腐を食べれば大丈夫だということなので、まだボケたくない僕は豆腐を食べようと思います。

日本豆腐協会「湯豆腐で老化やボケを防止しましょう」
http://www.tofu.ne.jp/2004/topics/2002/rouka.html