布団に寝ると違和感がある
合宿終了。今回は救急車を何台呼んだか忘れてしまうくらいに怪我や体調不良の人間が多かったというある意味とても恐ろしい合宿だったけれど、何とか終了した。それにしても東北地方は暑かった。八月初旬の山形県が特にひどい暑さで、燦燦と照りつける太陽の光を首筋に受けながら走っていると意識が朦朧となり目の前が白くなっていって腕が徐々に細かくバイブレーションし始める。「あー、これが意識を失うってことなのかしらん?」などと、うすらぼんやり思いながらペダルを回していた。まあさすがにそういうときは日陰を見つけ次第即行で休憩してたけど。今考えればあれは熱中症の一歩手前だよなあとか思う。危ないところだった。あと残念だったのは景色が全然よくなかったということ。八幡平や鳥海山、蔵王など標高がそれなりに高いところにいくつかいったにもかかわらずそのいずれも霧で真っ白。何にも見えない。哀しくなった。ああ、あと景色といえば、前にも思ったことだけれど、紫色を基調とした某スーパーのグループは間違いなく日本を破壊している、と思った。他の地方に行ってもこのことは感じていたけど、東北は一番ひどいんじゃないだろうか。どこへ行ってもそのグループ関連のスーパーがある。言い換えれば、ほとんどそれしかない、とも言える。真っ暗な東北地方の夜の風景の中に、夜11時とかまで営業しているそれらスーパーの光を見ると何とも言えない気持ちになった。しかしまあ、それらのスーパーは大抵の場合とても混んでいて賑わっているし僕自身だって小さい商店とそれらスーパーのどちらを利用するかと言えば結局後者を利用するわけで(だって値段が安いもの)、そういったスーパーが地方で幅をきかせるのも仕方のないことなのかな、と思う。上で僕は「破壊」というネガティブな言葉を用いたけれど、それは「変化」というフラットな言葉で置き換えたほうがいいのかもしれない。青木雄二の漫画、ナニワ金融道の中で主人公の灰原が「何が正しくて何が正しくないかなんてことは後の人間が決めることだ」といったことをキャリア公務員の都沢に言っていたような記憶があるけれど、僕もその通りだと思う。「宗教的」に正しい、「歴史的」に見て正しい、などというようにある基準を設ければ正しいか正しくないかというように物事を2分することは可能になるけれど、そうしなければ絶対に正しいことなんてあるはずがない。逆に言えば、絶対に正しくないことなんてものもあるはずがない。合宿から帰ってきて今さっき読み始めたミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という小説の中にもこれとちょっと関連してそうな一文があった。
人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。
(ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」千葉栄一訳より)
人間というものは何を望んだらいいのかけっして知りえないのと同様に、何が正しいのかもけっして知りえない。「何かが正しいと自分の中で信じること」しか人間はできないのだと思う。「正しさ」という非常に曖昧な価値観に囚われないで物事を考えられるようになりたいなあ、と思う。――というのはまあ確かに僕の本心であるけれど、実際、何かを「正しい」と考えておかないと何事も先に進んでいかない。だから、ある一つの「正しさ」という概念を構築するために人間は法律というものを作ったのだろう。僕は法律と言うものをずっとフラットなものだとただ漠然とイメージしてきたけれど、こうやって考えてみるとずいぶん偏っているものだと思われてくる。ある一つの「正しさ」の強要。それが法律の存在理由なのかもしれない。どうなんだろう。
まあ話がずれてしまったけど、今回の合宿で9割方サークル活動は終わったようなものなので、これからは自転車に乗って山にひきこもるのではなく、本を持って家にひきこもろうと思う。インドア生活バンザイ!
家に帰ってくるやいなや、ひぐらしの新作を買うべく一路秋葉原へ。どこにも売ってない。ショック。凹む。明日か明後日くらいに入荷される?らしい。また行くか。結局ハヤテのごとく!3巻と女子大生家庭教師濱中アイ4巻とREZ(500円だった)と存在の耐えられない軽さのDVD(廉価版がまだ残ってた)だけ買って帰宅。あ、帰りに無駄に先日開通したつくばエクスプレスを使ってみた。北千住を通っているのが嬉しいけれど、まあ多分あまり使わないだろうな、と思う。でも新しいだけあってとても綺麗だった。あと鉄道好きの方々が写真を沢山お撮りになっていた。僕もうかれてしまいついつくばエクスプレスのパスネットを買ってしまった。買ってからちょっと後悔したけどまあメトロで使えばいいか。