できる、できない
大学に入ってから「何もやっていない」と言ったって実際既に2年半もこの大学というところに属しているわけであるから、その間に何かしらのことはもちろんやっていて、それは例えばサークルだったりバイトだったり講義だったりする。だけどそれらを「○○をやりました」とあたかも、○○=大学生活の全て、のように自信を持って言うことはできない。それが大学に入ってから「何もやっていない」という意味だ。というのは何日か前にも書いた。
このこととは直接は関係ないかもしれないけれど、多少は関係しているような気がすることとして、僕自身の物事に対する評価というものがかなり結果主義に偏重しているようだ、ということがある。いや、結果主義というのはちょっと言い方が違うような気がする。何といえばいいのか。「物事というのは完結して初めて自分自身の中で物事となる」とでも言えばいいか。うーん、なんか分かりづらいな。具体的には、ある仕事量が100だったとして、たとえその仕事量の半分の50だけ終わったとしても、それはその仕事の「全て」が終わったわけではないから、自分の中では0としてカウントされるとか、そういうこと。結果だけを評価してプロセスを評価しないというのともまた違う感じで、プロセスというものは物事が全て終わったときに初めて評価される、と僕は考えているように思う。だから全て終わっていない(=目的が達成されていない)物事の、その時点での過程というものは初めから評価対象にならない。その物事が完結したときに初めてそれに付随して生じたプロセスというものが評価の対象になる。イメージとしては、資格試験の合格体験記などを思い浮かべてもらえるといいように思う。
それで、それが何なの?っていう感じだけど(僕もそう思う)、こういった考えが割と僕の行動を制限しているように思ったのである。ある物事を僕の頭の中で評価対象としての物事にするためにはそれを完結させなければならないわけで、完結しないのであればそれは僕の中ではゼロに等しい。となると、まず、それに「取り掛かるかどうか」を十分に吟味し始める。なぜならもし何も考えずにそれに取り掛かって結局途中で頓挫してしまったとしたらその労力は無駄骨以外の何物でもないからである。で、出来るという判断が下されればそれに取り掛かるし、出来ないという判断が下されれば初めからそれをやらない。現実には、初めから絶対に大丈夫、などという物事はほとんどないため、たいていの場合「出来ない」という判断が下されて、結果、何もしないことになる。この一連の思考の流れが、無気力、逃げ腰、夢がない、などといったことに繋がっているように思う。
では、これが「大学に入ってから『何もやっていない』」ということとどう関係があるのかというと、僕は実際これまでにサークル活動をしたりバイトをしたり講義を受けたりしているわけだけれど、それは僕自身がそれに取り掛かる前に「出来る、出来そう」と判断を下したからやっていることであって(講義とかは微妙だけどまあ一応科目登録のときに複数科目の中から選択しているということで)、僕が「出来ない」と思ったことをやっているわけではない。つまり、そこには「出来ない」→「出来る」への変化というのは存在しない。この変化というのは一言で言い換えてしまえば「成長」という言葉になる。「大学に入って○○をやりました」って言うのは、何をやったかが重要じゃなくて、「○○をやったことで自分は成長したんだぜ」ということが大切で、その成長があるからこそそれに基づいた自信が生まれるんじゃないかなと思う。だからその「○○をやりました」というときの「○○」というものの内容というのは人によって様々であって、それ自体には万人向けの価値なんてないし、それはどこまでも自己満足なものでしかない。
「何もやっていない」と考えている僕は「何もやっていない」と自分で思っている時点でやっぱり何もやってなくて、結局成長していないんだと思う。逃げまくっている結果だろう。しかも逃げるなら逃げるでそっちのいわゆるダメな方向に突っ走ることができればそれはそれであり(=成長)なのに、そこでもやっぱり「出来る」か「出来ない」かという2択がなされ、大抵の場合「出来ない」という判断が下されて、僕はまたもと来た道へUターンする羽目になる。だから結局、僕はどこへも行けず初めにいた場所の周りをただひたすらに回り続けるのである。グルグルグルグル。
「出来ないこと」をやらないと僕はそのグルグルから抜け出せない。
でも、はたしてそのグルグルから抜け出さなくちゃいけないのだろうか。抜け出す必要があるのか。そして、僕はそこから抜け出したいのか。さて、どうなんだろう。