楽しい時間

昨日今日の2日間は完全にフリーな休みの日で僕はそれなりにそれら休みを満喫することが出来たのではないかと思う。それはこの2日間があっという間に過ぎ去ってしまったように感じられていることからも明らかなことだ。楽しい時間というのは本当に直ぐに僕の中を通り過ぎていってしまう。だからこそ僕は楽しい時間というものをより楽しい時間として楽しみたいと思うのだが、しかし楽しい時間の中にいるときはその楽しい時間を楽しい時間としてあまり意識してはおらず、楽しい時間が終わったとき、つまり楽しくも楽しくもないかあるいは楽しくない時間に属しているときになって初めて過去の過ぎ去ってしまった時間が楽しい時間だったのだ、と分かる。楽しい時間の中に居る時にその時間が楽しい時間だと認識するにはどうすればよいのだろうか。「僕は今『楽しい時間』に属しているのだろうか?」と常日頃から不断に問い続ければその目的は達せられるのだろうか。しかしもし仮に楽しい時間の最中にそのような問いを自らに投げかけたとしたら、その時間は楽しい時間ではなくなってしまうように思われる。以前、おそらくFate/stay nightの本編中だと思うのだが、自分のことが幸せだと思う人間はその事実を持って幸せでないと言えるなぜならば幸せな人間は自分が幸せだということにすら気づかないくらいに幸せというものに満たされているからだ、という文章を読んで、確かにその通りのように僕には思えるからである。そういえばなんとなく似たようなことが先日読んだ本に引用されていたヘーゲルの『法哲学』序文の中に書かれていた。

世界がいかにあるべきかの教説についていうならば、それを説くには哲学というものは、元来いつも遅すぎてから生れて来るものである。現実が自らを形成する過程を完結し、自らを成し遂げた時に至ってはじめて哲学は世界の思想として現われる。……哲学がその灰色を灰色に描くときに、生の姿は既に老いている。そうして灰色を灰色に描くことによって、生の姿は若返えさせられるのではなくて、ただ認識されるのである。ミネルヴァの梟は、迫って来るたそがれ時になって漸く飛び立つのである。
ヘーゲル法哲学』序文)

カ、カッコイイ。語り方一つで似たような内容の記述でもここまで変わってしまうとは。やはり語り方というのはとても大事だ。先日終えたFate/hollow ataraxiaも語り方の優れたゲームだと思う。「何を」語るか、「どのように」語るか。もちろんどちらも重要だが、最近の自分は「どのように」という側面を強調した小説やらゲームやらを好んでいるような気がする。何でだろう。
まあそれは兎も角として、元々の「楽しい時間の中に居る時にその時間が楽しい時間だと認識するにはどうすればよいのだろうか」という問題について考える一助になることを期待して上で挙げたヘーゲルの『法哲学』を読んでみることにしよう。書店で立ち読みした際、かなり難しそうな印象を受けたので、ゆっくり読もう。