アンリアルタイムコミュニケーション

バランスが上手くとれない。何のバランスかというと、様々な物事に対する己の接し方におけるバランスである。例えばAとBという2つの事項があったときに、Aに力を割いているとBが疎かになり、逆にBに力を割いているとAがなおざりになってしまう。自分としては、Aに50%Bに50%という形で均等に全ての物事に接していきたいのだが、それはなかなか上手くいかない。単純にメモリ不足なんだろうか。また、これは物事の場合だけではなく、人物の場合でも同じである。仮にCさんとDさんという2人の人間がいたときに、Cさんに対応しているとDさんに対する対応が遅くなり、逆にDさんに対応していると今度はCさんに対する反応が遅くなってしまう。もちろん人には相性とか好き嫌いがあるので、そういうことがあるのも致し方ないとは思うのだけれども、CさんもDさんも同じ位の好き嫌い度(何だそれ)であるときが困る。こちらとしてはどちらの人物に対しても同じ対応を提供したいのだけど、どうしても偏ってしまう。そして苛立ちが己の中に募っていく。何故僕がそんなことに苛立ちを感じねばならないのか、そんなことに苛立つ理由はないだろう。そう思ったりもするのだが、苛立ちは勝手に募っているのだからどうしようもない。最近特に左記のようなことを感じるのは、多分メールのせいだと思う。携帯のメール。携帯メールの矛盾に苛立ちを感じることが多いのである。
 先日読んだ大学のコミュニケーション特集冊子の中で、電話以上に携帯メールが発展したのは、それが非即時のコミュニケーションであるからである、ということが述べられていた。非即時のコミュニケーションとは、電話のようなリアルタイムのコミュニケーションではなく、一方通行のコミュニケーションである、ということである。即時コミュニケーションには必ず2人以上が必要だが、非即時コミュニケーションでは1人の人間が好きな時間に自由に行うことが可能であり、この非即時性が現代の人々のライフスタイルに合致したのだろう、というような感じで上記の冊子の中ではまとめられていた。確かにその通りだと思う。それに対しては何の異論もない。ただ、僕が感じるのは、日常においてその非即時的なはずの携帯メールに即時性が要求されている、ということである。そもそも携帯電話というものは、家でだけじゃなく外にいるときにでも電話ができるように、ということで生れたものであるわけで、場所に制限されない即時性の追及の結果生れたものであると言える。そんな即時性の結晶のようなものに非即時性を有するメールを組み合わせる、というのはとんでもない考えで、考えた人は凄いと思う。しかしその結果、使い手の側に、メールというものは非即時性を有するものである、という前提が消えてしまったように思われる。即時的携帯メール。リアルタイム携帯メール。そんなものには何の価値もない。だってそれなら電話の方が情報伝達量も圧倒的に多いし、速いんだから。でも、そうであるにもかかわらず、メールでのリアルタイムコミュニケーションが増えているように感じられるということは、おそらく人が他人との直接の会話を望んでいるわけではない、ということなのだろう。他人と直接会話なんかしたくもないし1人で居たい、でも他人と常にコミュニケーションはとっていたい。そんな矛盾を解決してくれるのが携帯メールというもので、そのような人間が増えたから、きっと携帯電話(メール)はここまでの発展を遂げたのだろう。余談だが、最近某携帯電話会社が、複数人と話せる、というサービスを始めたと大々的に広告を打っているが、おそらく流行らないのではないか。今更即時性コミュニケーションツールを導入し、さらにそのために必要な人の数を増やしている時点で流行るわけない、と、僕は思う。そんなどうでもいい機能を作ってるんだったら、さっさと北欧の国のように街中に無線LANを張り巡らせてほしい。そっちの方がよっぽど有益だ。
話がずれまくっている。元に戻そう。そういうわけで、僕は携帯メールに即時性を求められることによって苛立ちを感じることが多いのである。バランスの問題とも相俟ってさらに。だったら携帯を持たなければいいじゃないか、僕も確かにそうだとは思うのだが、なかなかそうもいかないというのが正直なところで、携帯電話がなければないで困るのである。一度生活に密着してしまったものをそこから剥すのは結構大変なのだ。まあでも多分携帯電話を捨ててしまえば、何だ、あんなものなくても全然問題ないじゃないか、ということになるとは思うのだけど。だって携帯電話を使わなければいけないほど重要な用事なんてまずないのだから。しかし捨てるきっかけが掴めない。難しい。