山の中の獅見朋成雄 舞城王太郎

山ん中の獅見朋成雄

山ん中の獅見朋成雄

この小説は背中に馬の鬣のような毛の生えている獅見朋成雄という少年が主人公の物語なのだが、風呂場でオイカワさんに「あんたほんでこれ、剃ってまうんか?」と聞かれた後の獅見朋成雄の自己問答がよかった。

鬣がなければ僕はもう僕じゃなくなるのだろうか?
判らない。
(中略)
鬣以外の何を基にして僕は≪僕≫を育てていくんだ?
判らない。
判らない。
判らない判らないで考え続けて来年再来年十年後を待つつもりか?



それは絶対面倒臭い。
舞城王太郎「山の中の獅見朋成雄」p150〜151より引用)

そうやって「まいいやと思って」鬣を剃り、獅見朋成雄は新しい僕になっていく。この「ぐだぐだ考えてたって面倒だし何も変わらんしとりあえずやっちゃたほうが早いんじゃないのか?」という考えは、そう思っていてもなかなか実行できない僕自身のもどかしさを振り切ってくれるような気がして、読んでいて気持ちがよかった。ただ、もちろんそれを剃ってしまうということは、もう元の自分、鬣を剃ってしまう前の自分には戻れない、ということで、それはリスクのある行為には違いない。が、世の中ゼロリスクなんてものは、インチキ証券マンの言説の中以外には存在しないのである。新しい自分に変わる、というのは怖いかもしれないけど、でもそれを受け入れて、前に進んでいくとウサギにも出会えるしモヒ寛も救えるのだ。障害はぶつかったらそのときに考えればいい。また新しい僕に変わっていけばいいのである。と、そんなことを思わせてくれる小説だった。面白かった。
以前にどこかで(多分大塚英志氏の文章の中で)、この「山の中の獅見朋成雄」という小説は「千と千尋の神隠し」のパロディだ。という評を読んだ記憶があるのだが、読んでみて、たしかに似てるなあ、と思った。異世界へ行って帰ってくるとか、風呂とか、「名前」とか。「千と千尋の神隠し」は以前見たときはどうもよくわからなかったのだけど、もしこの小説がパロディなんだとしたら、もう一度映画を見てみたらまた違った見方で見ることもできるかもしれない。暇があったら見てみることにしよう。
しかし舞城作品を読むとテンションが上がってくるなあ。