世代交代
はいから狂いの少女たちがやれ新宿だやれ原宿だやれ下北だとはしゃいでいるそんな最高HAPPYな日曜日に秋葉原にいる男2名with俺。そんな計3名の哀れな男たちは曇りがちで今にも雨がぱらつきそうな天気の下、秋葉原某所にある雑居ビルの2階、俗に言う、妹喫茶、というところにいたのである。以前、とある広告関係の方の講演を聴いた際に、その方が
「全く新しいものなんてのはまずない。あってもそれを作ることは容易でないし、まずできないと思った方がいい。世の中にある多くの新しいものは、既存の何かと何かを組み合わせることによって出来ている。つまり、重要なのは、何と何を組み合わせるか、ということだ」
というようなことを仰られており、なるほどそうなのか、と当時の俺は合点していたのだが、さて、そこで妹喫茶、である。昨今、メイド喫茶、なるものが隆盛を極め、世のオタク衆にこれ実に好評を博したのは記憶に新しいところであるが、それも今は昔。流行の常、とでも言うべきか、結果、秋葉原という街の至るところにメイド喫茶を謳った喫茶店が乱立。いまや、メイドだかメイドでないかすらよくわからない似非メイド的存在が街を闊歩暗躍、秋葉原を混乱の渦中に巻き込まんとしているという、そんな未曾有の事態が起こっているのである。これすなわち特定種の異常増殖がもたらした、ある種必然とも言える結果であり、このままの傾向が今後も持続したとすれば、街の破壊、そして国、さらには地球の崩壊という事態も有り得ないとは言い切れない。そんなDAKARA的非常事態に秋葉原の街、だけでなく世界はさらされているわけであるが、しかし、世の中というものは実に上手く出来ているもので、何かが興隆すればそれに対立する概念が生じ、そのような矛盾と対立によって今の世界は進歩・発展の歴史を歩んできたのである。つまるところ、今現在のこのようなメイド喫茶全盛の時代背景の中、それに対立するアンチテーゼとして生じたのが、妹喫茶、なのではないかということだ。
妹喫茶とメイド喫茶を決定的に分け隔てる要素、それは言うまでもなく妹かメイドか、という点であるが、これは些細なことのように思えるけれども実際は天と地、月とすっぽん、クラウザーさんと根岸くらいの違いがある。なぜならば、そもそもメイドというものは給仕洗濯家事等をその主たる職務としているわけであり、その観点から言えば、喫茶店で働いていたとしてもさほど畑違いとは言えない。だが、妹。これはどうか。妹、といえば普通一般には本人と両親を同じくする二親等の親類で年少の女性を指すわけであるが、そのような女性が喫茶店で給仕をする理由など、メイドに比べるとまるでわからない。謎である。けれども、先ほども述べたように、重要なのは「何と何を組み合わせるか」なのだ。ある時代に先鋭的であったものが後の世の標準スタイルと化すということは、歴史上でも度々起きていることなのである。もしかすると、今、まさに妹がメイドに取って代わろうとしているのかもしれない。それゆえ、俺を含めた男3名は、そんな時代の変化をビビッドに感じ、そこに確かに息吹くであろう新しい風を、自らの体に感じるべく、妹喫茶に馳せ参じた、というわけなのである。
30分後。「いやー、正直あれは微妙だわ」とか言いながら階段を降りてきた3名のみすぼらしい男衆は、近くで拉麺を食らうと、日曜だし酒でも飲むか、ってんで、上野の方へとぼとぼと歩いていったそうである。喫茶店と男たちの行方は、誰も知らない。