言訳

分散学習というアビリティを獲得したことによって、テスト勉強の合間に遊んだりすることで生じる罪悪感を幾分かは打ち消すことに成功した小生であったが、今日は全然勉強できなかったので、結果、罪悪感だけが残った。あー。分散学習程度では付け焼刃に過ぎなかったか…。この分散学習もそうなんだけれども、何かを学ぶっていうことは何かが分かって嬉しい!とかそういう自己の知的好奇心・探究心を充足させることよりもむしろ、学んで知識をつけることで、世の中のどうでもいいことに対していかに上手いいいわけを構築して世の中と折り合いをつけていくか、という側面のほうが強いんじゃないだろうか。僕にとっては何かを学ぶということはそういうものである気がする(もちろん知的好奇心等が全くないわけではない)。以前このようなことを文学部の後輩とサークルの部室で話したような記憶もある。いいわけという行為に人間の本質のある側面が現れてるような気がする、とか、自分をも騙すことのできるようないいわけを手に入れたいね、とか、そんな話を。こういうことを考えていたら、先日ちょっとだけ引用した三木清のことを思い出した。三木清の著作は先日引用した「人生論ノート」しか読んだことがないのだが(しかもそれもあまりうまく理解できていない)、彼の人生におけるある出来事について学ぶ機会があった。彼は東大卒のエリートとして意気揚々と中国に留学するのだが、そこでひどい失恋をして、絶望に陥る。それで、ずっとその絶望を引きずりながら、世界なんて虚無だ!という中で様々なことを考え、そしてやがて、自分のやってる仕事なんて虚しいことだけど、それを虚しいものだとわかった上で、あえてそれに賭けよう、として立ち上がる。という、そういう出来事であった。これなんて絶望の中から生み出された、いや、三木清が生きるために自ら生み出した、究極的ないいわけなんじゃないかと思う。やはりこのようないいわけを獲得するには絶望が必要なのだろうか。でも、僕は全く絶望するほどまでには学ぶということをしていないし、全く楽観的に生きていくことができるほど学んでいないわけでもない。(後者に関しては世の中のほとんど全ての人がそうだろう。)まあなんというかいつも思うけど結局中途半端なのである。それゆえいいわけも中途半端になる。僕はもっと上手いいいわけを、自分を騙すことのできるようないいわけを、見つけることができるのだろうか。……とか何とか考えているとまたやる気がなくなってくので、考えるのはやめて今から18日にあるテストの勉強をすることしますってあーこれが中途半端っつーことなんだよね。終わっとる。けど終わりきってない。だからなおさら終わっとる。まったく。ぷう。