QMA3プレイ日記
ここ3日、地元のゲーセンに足繁く通っている。目的はもちろんQMA3である。すっかりはまってしまっていると言えるだろう。困ったものである。今のところ、20クレジット前後は消費した(内、優勝は6回)。このペースでいくと大変なことになってしまいそうなので、少し自粛していきたいところだが、多分明日も行くと思う。明日はもう9月だから、金もないのに(←憶測)メダルを探してウロウロしてるウザい小中学生もいなくなってていいだろうし。
プレイしていて後悔していることが一つだけある。キャラ選択を明らかに誤った、ということである。ルキアにしとけばよかったなああああ。なんでよりによってサンダースなんだよ…。大人しく萌えキャラ選んどけよ、自分。
このゲームをやってると、全く聞いたことのないようなものとかも結構出てきてそれなりにタメになるのだが、でもそれは“それなり”でしかなくて、なぜ“それなり”なのかというと、問題に対する答えしかわからないからである(わからない場合もある)。だからそれを自らの知識へと昇華するにはアフターケアが重要になってくる。久々に世界史の教科書を読んで、靖康の変について触れておいた。そんなの知らねー、と問題で出されたときに思ったけど、教科書には太字で書かれてたので、多分一度は学んだことがある。高2の頃世界史けっこう得意だったのになあ…。全然覚えちゃいない。まったく。
ネットで、あるスポーツ選手についても調べてみた。すぐにその人物のサイトは見つかったのだが、更新はすっかり停止していて、いまや使われなくなった掲示板は英文字のみで満たされていた。なんとなく哀しい気分になった。この感覚は、チャリで地方に行ったときなどに見かける、いまはほとんど使われている形跡のない寂れた公園を見たときに感じるものとよく似ている。薄汚れた滑り台に、錆びた鉄棒。ボロボロになったシーソー。それらはきっと、僕らが訪れる前も訪れた後も何も変わらず、ただ、黙って朽ちていくのだろう。そんな遊具たちを見ているときに感じる、郷愁を含んだ寂寥感に似ているのである。ただ、公園と違うのは、ウェブサイトは劣化することなどなく、最後に更新された状態のまま、物理的な理由のない限り、ずっとそこにあり続ける。全く変化せず。それなのに、どうして郷愁なんてものを感じてしまうのだろう。不思議だ。