ゲームを買うということ

郊外のゲーム屋本屋携帯電話屋が一緒くたになった某大型チェーン店で友人と2人でゲームを物色していたとき、友人が一本のゲームを指差しながら、「これ兄貴が500円くらいで買ってきて、びっくりするくらいつまらなかったんだけどさ、まあそのつまらなさは価格的にもやる前から想像できたから俺と兄貴は別にいいんだけど、もし、小さい子が親に何度も何度も必死に頼み込んでやっと買ってもらったゲームがこれだったら、しかも発売日に新品で、ということを考えると何だかすごく悲しい気分になるよね」と言った。想像してみて、僕もすごく悲しい気分になった。
小さい子は沢山のお金を持っていないから、自分でゲームなんて買えないので、何とかして親に買ってもらうしかない。「ゲーム買って!」「了承(1秒)」と即答してくれるような親はあまり多くないだろうから、買ってもらうということ自体がまず大変だ。お母さんが買い忘れた牛乳を買いに行ったり、お風呂掃除をしたり、お皿を磨いたり、ゴミを捨てに行ったり、肩たたき券を量産したり、という涙ぐましい努力を重ね、やっと買ってもらえることになる。そうやって手に入れた、シュリンクラップされた新品のゲームソフトは、きっと彼の目には輝いてみえることだろう。そんないわば涙の結晶であるゲームがいわゆるクソゲーだったなら。これはもう泣かずにはいられない。でも、次のゲームなんて当分買ってもらえない。コントローラを涙で濡らしながら、そのゲームをやるしかないのだ。「このゲームをクリアすれば俺はまた一段大人の階段を上ることになるのだ」などということを何の脈絡もなく唐突に考えてみたり、「ゲームとしてはつまらないけど、この部分のここだけは何か面白いような気がする」などと全体ではなくその要素に無理やり価値を見出して、つまらないゲームを掴んでしまった自分を少しでも慰めようと努力してみたりする。そうやって、色々な事を考えざるをえない。そういうことを考えないと、哀れな現実を受け入れることができないからだ。
でも今は。たとえ新品でつまらないゲームを買ってしまったとしても、まあ別にいいや、と思って、次のゲームを買える。肩たたき券を量産しなくたって、買える。自分のお金で買える。だから、あまり一つのゲームについてあれやこれやと考えなくなってしまった。つまらなくても、次がある。それがだめでも、また次が。これって小さい頃の自分からすれば、最高の状況に違いないはずなんだけど。そうでもない。ただ単純に、もう、ゲームに飽きた、ということなのかな。