しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。

小川さやか『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』で紹介されていて興味を持ち、『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』を読んでみた。

数字や色、左右を語る言葉がないといった言語学的な観点も面白いのだが、個人的にはピダハンの満ち足りた生活が印象に残った。「満ち足りた」といっても、西洋文明的な視点で物質的に満たされているということではない。美しい土地があり、水はきれいで、うまいものがある。知る限りにおいて自らの人生を脅かすものが何もない。ピダハンはよい人間である。そういうことを何ら疑わずに済むということだ。

――ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようにはみえない。答えはもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。

 もちろんこのように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞してしまいがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして何段を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。しかしもし自分の人生を脅かすものが(知るかぎりにおいては)何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればよいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。

 

『 ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』p142-143

 結局、このようなピダハンと長きに渡り共に暮らした著者のダニエル・L・エヴェレットは、伝道師としてピダハンを訪れたにもかかわらず、最終的には無神論者になってしまったという。

変化や進化ばかりが肯定される社会に生きる者として、そしてそれを何ら疑ってこなかった者として、過去や未来を憂うことなく、ただ今を楽しみとともに生きるピダハンの生き方はとても眩しく映った。(もちろん、ピダハンと同じような暮らしをすることは不可能だとしても)

著者と共にピダハンと暮らした著者の息子のケイレヴ・エヴェレットも現在人類学・言語学者となっており、最近著書の翻訳版が日本でもリリースされたばかりのようなので、今度読んでみようと思う。