怒ることについて

怒る、ということが苦手である。そんなことを、サークルの最後の総会に出席して、他の人の話を聞いているときに思った。ここは怒った方がよい怒るべき時だということがわからないのか、というと、別にそういうわけではないんだけれども、そういう時にも怒る気がしないというか、その、なんというか。怒ることによってその対象となる相手に嫌われたくないからだろうか?などと自分で考えてみたが、どうもしっくりとこない。うーん、何でだろうなあ。と暫し考えていたところ、誰かが「怒るっていうのは疲れることなんですよ。人と関るってのは大変じゃないですか」とか何とか言った。それを聞いて、ぽんと膝を打った。そうか、人とあまり関りたくないから自分は怒らないのかもしれない、と気づいたからである。
怒る、という行為は、高まった自分の感情を他人に面と向かってぶつけることである種のカタルシス的なものを得る、という利点があるが、きっと人が怒る目的はそれだけではないことが多いだろう。特に仲間相手に怒ったりするときには。仲間相手に怒る場合などは、その怒られた対象に変化をしてもらいたい、きっと変化するだろう、という他者に対する期待、というものがその怒るという行為の中に内在しているのではないか。たまに「お前のためを思って怒ってるんだ」などという非常に恩着せがましい言葉を聞くことがあるが、あれのことである。ああいうことを言うような輩は何となく自分のために怒っていることが多いような気がするが、まあそれはさておき、そういう他人への期待というものが怒るということには含まれていて、怒れない僕は、つまり、他人に期待していないということになってしまう。そうなのか? それって何だか申し訳ないような気分になるので、簡単に、そうだね、と認めたくはないのだけれども、そうなんだろうか。うーん。でもまあ、今までの自分を振り返ってみるに、何回か軽く何かを言っても伝わらなかった相手に対しては、もういいや、みたいな気持ちになっていることは度々あるような気がしなくもない。そういうのってあまりよくないような気もする一方で、でも別にそういう人とは付き合わなくてもいいじゃないか、と思ったりもする。ただ、そういう場合、相手の人も僕に対してあいつとは付き合わなくてもいいや、と思ってくれればいいんだけど、相手はこっちに何度もコミュニケーションを要求してきたりすることもあって、そういうときはなかなか面倒なことになる。そういう人に対してまで僕は「期待」を持って接しなければならないのだろうか。って、なんか怒るってのと関係なくなりつつあるな。
そんな感じで、人と人との関わりというのは、やはり難しいものである。と超適当にまとめておこう。