腰を据えて

バイト先で漫画の話をしていたときに、漫画って繰り返して何度も読むよね?っていう話題になり、うん、繰り返し読むね、と言おうと思った。が、その際に、あれ、そういや最近はあまり繰り返して読んでいないかもしれないなあ、ということに、ふと気がついたのである。

昔、それこそ月のお小遣いが4桁に満たないときなんかは、家にある漫画を何度も、何十回も読み返していた。ドラゴンボールとか、スラムダンクとか、ちびまる子ちゃんとか、クレヨンしんちゃんとか、そういうの。だからそれらは多分かなり僕の体に染みこんでいるんじゃないかと思う。しかし、大学生になってバイトをするようになってからは、バンバン新しい漫画を買っているので、昔に比べるとずいぶん沢山の漫画を読んではいるものの、一つ一つの漫画に触れる時間は以前よりずっと少なくなったような気がする。これは漫画だけじゃなくゲームにも言えることで、今はほとんど気の赴くままにゲームを買えるけど、昔はゲームを買える(買ってもらえる)のなんて誕生日かクリスマスのときくらいだった。だから一つのゲームを何度も繰り返しやった。ファミコンドラクエ3なんか、ほんとROMが腐るほどプレイしたと思う。でも。今はそれくらいプレイするゲームというのはほとんどなくなってしまった。というか、僕自身がそのようなプレイをしなくなった、という方が正しい。僕は沢山の読むべき本、やるべきゲームに追われ、次から次へと新しいものへと飛び移るということを繰り返しているのだった。

はたしてどちらがいいのか。ひとつのものをじっくりと自分の中で深めていくのと、沢山のものに次から次へと触れていくのと。おそらくどちらも一長一短、100%こちらがよい、などとは言い切れないだろうが、今のこの世の中ってのは、どちらかといえば後者のような時代なんじゃないかと思う。新しい情報が矢継ぎ早に追加されていって、それを短時間のうちに処理していかないといけない。情報は次から次へと更新されていくから、一つ一つについてじっくりと自分の考えをまとめる時間はなく、とりあえずマスコミの意見を鵜呑みにする、あるいは逆にマスコミ批判的な言説を唱えるようになり、どちらにせよ、結果、自分の意見というものを喪失する。そしてマスコミ、メディアが影響力を持つ。本やゲームなんかも同じで、時間のない人たちは、雑誌やネットなどでそれらの情報を収集し、流行っているもの、楽しいと評判のもの、あるいは楽しかった過去作品のリメイクのみを楽しむようになる。それで、他との比較を自らですることなく、他人の評価を参考にして選択したものを、あー楽しかった、と満足して受容する。そこには自分というものはない。そうやってみんな自分というものを喪失していく。

僕自身、なんか今は昔より色々つまんねーなー、というのは多分このあたりに関係があって、って前も同じようなことを言ってるけど、やはり他人の意見というのはあくまでも他人の意見で、やはり他人の経験というのはあくまでも他人の経験で、僕は僕自身の意見や経験というものを持たなくちゃいけないよなあ、と思う。「持たなくちゃいけない」というか、「持ちたい」。例えば僕が自分自身で試行錯誤を繰り返し、その結果ある事象Aということを成し遂げたとき、もしかするとその事象Aというものは既に過去に他人が為している出来事かもしれないけれど(ほとんどの場合そうだろう)、だからといって価値がないんじゃなくて、僕にとってそれは十分に価値のあることだろうと思う。こんなこと書いてるとなんかそんなのごく当たり前のような気が自分でもするけれど、書かないとわからないこと、頭の中で考えてることと実際の行動が異なること、っていうものもあったりする。多分これはそのような種類のものなんじゃないかと思う。

こういうことは常に意識していきたいと思うのだが、意識してるようじゃ駄目だよなあ、とも思う。自然に、当たり前にこういう感覚を持つようになりたい。とりあえず、もっと一つの物事に対してじっくりと取り組む姿勢を持ちたい。本にしろ、ゲームにしろ、まあ色々なことについて。