一番、好き
自分の考えを当たり前のように一般化する、ってのはあまりいいことではないと思うし、また逆に、自分は周りの人間とは違う人間だ、などと自分を特別視するのもよくない、と思う。けれど、そういうことを全くしない、ということがいいってわけでもないんじゃないか。そんなことを考える。例えば。何かを見たり読んだり聞いたりしたときに、それが非常に素晴らしいものだったとして、「いやーあれマジで最高だった」とか「あれの右に出るものはないね」とか、そういうことをつい言ってしまいがちだけど、それってあくまでも自分の経験の範囲内における「最高」だったり「右に出るものはない」とかだったりするから(さらに言えば自分の経験の中、しかもその時点の自分が覚えている経験の中で、という限定がかかる)、それは世における「最高」とか「右に出るものはない」とは異なる。そう考えると、俺は世の中の全てを知っているわけじゃないのにどうして「最高」とか「右に出るものはない」とか言えるんだ、と思えてきて、それが何か欺瞞的で嫌で、じゃあそういう言葉を使わなきゃいい、でも他に適当な言葉を知らない、どうしよう、そうか、限定された中でだよ、っていうことも言えばいいんだ、となって、「最高だった、僕としては」とか、そういう譲歩がつくようになる。でも。これだと「最高」っていう言葉の強さは当然薄れてしまう。メッセージ性が弱くなる。例えば、下記のリンダリンダリンダの響子じゃないけど、誰かに告白するというときに、
「私はあなたが一番好きです。とはいえ、私は世界中の男性を知っているというわけではないので、あくまでも私が現時点において知りあってきた男性の中で、という限定がつきますけど。」
こんなこと言われたら、何だか好きなのか好きじゃないのかすらよくわからない。だから、この場合、「一番」という言葉の持つ曖昧さには、目をつぶったほうがいい。こういうときって結構あるような気がする。でも、それはやっぱり嘘をついているようで嫌だなあ、と思っちゃったりするので困るのだ。終いには、何も言えなくなってしまうのではあるまいか。
何かを言うためにも、僕はもっとこだわりを持ったり、色々なものをみたりして、自己肯定して、言葉を増やして、伝えたいことを伝えられるようになれれば嬉しい。