自動車絶望工場 鎌田慧

自動車絶望工場 (講談社文庫)

自動車絶望工場 (講談社文庫)

フリーライターである筆者が、1972年から1973年にかけて6ヶ月間トヨタ季節工として働いた体験を記したもの。今でもバイト情報誌の裏面に募集がかかっているのを見かけることがよくあり、もし働き始めてすぐに仕事を辞めてしまうことがあったらあの期間工でもやってみようか、とか思うこともあった(前のバイト先の先輩が一回だけやったことがあると言っていたのを聞いて)のだが、これを読んで思い直した。もちろんこれは30年以上前の話なので、今現在は改善されている可能性は十分にあるだろうが。最近はほとんどやらないが、以前やっていた学生向けの短発バイトは、「誰にでも出来て楽な仕事」がほとんどだったので、期間工というものもそんなものだと勝手にイメージしていたが、多分「誰にでも出来るがキツイ仕事」なのだろう。しかもそれが毎日なのだから、この本の中に出てくる人たちのように文句を言いたくなる気持ちもわかる。しかしそれをやらなきゃどうしようもない、という現実が彼らにはあって。むずかしい。誰もが快適で幸せな生活をおくるというのは幻想だな、とこれを読んでつくづく思った。僕自身、来春から某メーカーに就職するのだが、おそらく初めの1、2ヶ月は工場研修も行われるはずで、その工場でもこのようなことが起こっているのだろうか。たとえ起こっていたからといって、僕には何も出来ないのだが。罪悪感みたいなものは感じてしまうかもしれない。僕が何か悪いことをしたわけではないのだから、そんなもの感じる理由はないと頭では思うのだが、でも、そういうことって、結構ある。
以下、印象に残った箇所をいくつかメモしておく。

たとえば工藤君の場合には、労働は初めから辛いもの、という前提があり、初めから自分とは関係ないものだという「思想」があるのではないだろうか。(p75 6行目以降)

さまざまな可能性を持っている一人の人間が、ひとつの器官だけを激しく使う労働に囲いこまれ、人為的に未発達な人間にされてしまう。(中略)工程を細分化し再構成した合理化は、人間の能力を細分化させ、人格さえ企業に都合のいいように再構成する。それはロボトミーの手術にも匹敵する。(p121 12行目以降)

工場の門をくぐる時、守衛に身分証明書を見せる時、その時から自分は、もはや番号だけの存在になる。それは自分の魂と自分の頭脳を、まるで外套を預けるように預けてしまうようなものだ。そして門を出る時、一〇時間か、一二時間ぶりかで、ようやく<自分>を返してもらい、それを着てやっと自分の表情と威厳を取り戻し、家路を辿るのである。(p148 4行目以降)

機械が人間のマネをしているのではなく、人間が機械の代りを務めているのだった。そして生産競争。かれの打ちのめされ、粉々になってしまったプライド。そういえば、人間尊重を謳うトヨタのPR映画には人間は登場しなかった。出て来たのは車と機械だけだった。(p243 9行目以降)

(以上、鎌田慧自動車絶望工場』より引用)