人間の屑

人間の屑 [VHS]

人間の屑 [VHS]

町田康の同名原作の映画。昔はバンドでそこそこイケてた頃もあったけれども、とある事情によって今ではすっかり落ちぶれて日々悶々としている主人公が、もう一度やるしかない、っていうんで何度も再起を決意するが、生来の適当さが災いしたのか、いつも上手いようにはいかず、思いも寄らぬ方向へ話が転がっていってしまう、という話。
物事っていうのは、何事も因果関係、というものが大事であって、不法行為だって物事と物事の間に因果関係がなければ基本的に成立しない。でも、ものごとの因果関係っていうのは、どこからどこまでが因果といえるのか、と考えるとなかなか難しい。例えば以前読んだ法律の教科書に、
「Aさんがボールをガラスに向かって投げた。もうガラスまであと1メートルというところで、全然受からないので自暴自棄になった司法試験受験生が六法をガラスに向かってぶん投げてそれでガラスが割れてしまった。そして割れたガラスのところをボールが通過した。ボールを投げたこととガラスが割れたことの間に因果関係はあるか(多分内田貴民法Ⅱ』)」
などという例が載っていた。この場合、実際にガラスを割ったのは六法だからボールは関係ないやん、と思うかもしれないが、もし六法が飛んでこなければボールによってガラスは確実に割れていたわけであるから、全く関係ないとも言えないような気がしなくもない、という。
とまあ、そんな具合に一言で因果といっても色々と複雑なのだが、さて、この話の主人公の清十郎、である。彼はやれいい加減だやれ適当だと、自他共に認められる人間だが、いつも色々と考えている。今の自分の状態と過去の自分の為した行為との間に因果を見出し、このままじゃいかん、と思ったりする。これは全然適当でもいい加減でもない。誰でもみんなそうやって色々と考えて大きくなっていくのだ。だが、この清十郎という男のちょっと人と違ったところは、ある程度までは普通の人間と同じように考えられるのだが、最後の最後でちょっと「わき道にそれてみよっかなー」と思ってしまうところなのである。で、結局それまでに考えてきたことはその意味むなしく消え去って、残るのはただ過去の自分を後悔する自分、ということになってしまうのだった。そんな感じで、わき道へわき道へできるだけ楽なほうへ、という行為の因果関係による生き方が、これ実に面白いと僕は思うのである。
この映画は、確かに表面上は町田康の原作小説のままなんだけど、でもある行為とある行為との間の主人公の思考とか、物事の因果関係が全く見えないため、正直何やってるのかさっぱりわからない意味不明映画になってしまっている。そりゃ登場人物の言動や行動だけ見れば同じかもしれないけど、結果としては全く別のものになってしまっている、と思う。同じ町田康の原作の映画なら「けものがれ、俺らの猿と」のほうがまだ面白い。この映画は、ちょっと残念だったなあ。