妄想加速
ゼミの先輩と昼飯を食べながら話をした。夢や希望もないこんな世の中だから、ライブドアの某社長のようなマキャベリストが幅をきかせるんだ、とか、法律の必要性、いや、法律は必要なのだけれども、「僕」が法律を学ぶことに必要性なんてあるのだろうか、とか、お金があるならニートになりたいがそんなお金なんてどこにもないよね、などという、非生産的以外の何物でもない会話をしながら、カレーを口へと運び、水を飲んだ。このカレー屋は大学の正門からすぐ近くの場所にあるのだけれど、昼時だというのに、あまり混んでいない。決して値段は高くないし、まずいというわけでもないのに、空いている。わざわざ並んでまでして松屋やマックなんかに行かなくとも、こういう店に来てゆったりと食事をすればいいのにと、疑問に思う。やはりもう、このような学生向けの個人経営の店の時代というのは終焉を迎えつつあるのだろうか。あと数年もしたら、このような個人の店はチェーン店に席巻されてしまうのだろうか。何となく哀しくなる。このカレー屋がどれくらい昔からあるのかは知らないが(もしかすると割と新しいのかもしれない)、昔はもっと多くの学生が訪れていたのだろうか。携帯電話なんてない時代だから、学生達はテーブルを囲み、顔をつき合わせて色々なことを話しあったりしたのではないだろうか。お金の価値なんかに囚われることなく、自由に自分の意見を言い合ったのではないだろうか。そんな活気に満ち溢れていたのではないだろうか。そんなことを夢想する。だけど、もしこの妄想が正しかったとしても、それはとうの昔に過ぎ去ってしまった過去の話であって、今の話ではない。あらためて店内を見渡してみると、店内にはラジオの音だけが静かに響いていて、客はといえば、僕と先輩ともう一組の客しかいなかった。それが僕の生きている今という瞬間における真実であり、それがつまり現実というものなのである。現実。現実……。イメージと現実というものとの間にギャップがあるというのはよくあることだと思うけれど、ではそのギャップの程度があまりにもひどいものであったとき、人はどのような態度をとるだろうか。おそらく、そういうものなのだと割り切ってそういうものとして接していくという態度をとるか、あるいは、そのギャップをどうしても受け入れることが出来ず、それを認めることを放棄するという態度をとる、そんなふうになるのでないだろうか。自分自身を振り返ってみると、前者の態度を取ったほうが生きやすいということを、頭では分かっているけれども、別の部分では後者のような態度をとろうとする自分がいるという、そんなジレンマに陥っているような気がする。しかし、一生働かずに考えている事の出来る人間なんて、それこそ村上春樹が風の歌を聴けのなかで語っていたように奴隷制のあった頃の市民か、あるいは、大天才の学者くらいしかいないだろう。残念ながらそのどちらでもない僕は、どこかで折り合いをつけないといけない。斧の刃を自分の方に向けて、自分を殺す必要がある。そうやって自分を殺してしまった僕は、再び元の自分に戻ることが出来るのだろうか。大地にキスをして祈りを捧げれば、元に戻ることが出来るのだろうか。答えなんて、どこにもない。
テストが近くなると妄想が加速する。ただ最近はテストがない時期にも妄想に囚われているので、これが常態だといえば常態かもしれない。それってあまりよろしくないような気もするが、よろしくないからといってどうにかなるようなことでもない。どうしようもない。どうでもよくはないが、どうでもいい。よくわからない。
7月7日といえば七夕ですね。一昨年この日、僕は横浜のどこぞのスーパーの巨大笹に、短冊を吊るしていたような、そんな記憶があります。確かフル単とれますように、とか、そんなことを書いていた。大丈夫。君は2年続けてフル単なんて取れないから。2年前の自分にそういってやりたい気持ちで一杯です。