血を巡る物語

BLOOD―The last vampire 2000 (角川コミックス・エース)
古本屋で見つけたので買ってみた。BLOODの映画は確か何年か前にDVDを借りてきて観たはずだけど今ではほとんど覚えていないので(何となく覚えてるのは最後のほうの電車のシーンと工場みたいなところで闘ってるシーンくらい)、漫画を読めば少しは内容を思い出してBLOOD+をより楽しめるようになるかなと思ったからである。でも、映画とは全然違う話だった(と思う)。あれ?こんな話だったっけと首をかしげながら、一番後ろに載っている神山健治氏の文章を読んだところ、

玉置氏による漫画版で描かれた小夜や翼手の世界についても、やはり一つの可能性でしかないのかもしれない!
(BLOOD―The last vampire 2000内、神山健治「小夜と翼手についての考察」より引用)

などと書かれており、ああ、そういうもんなのか、と思った。色々な世界が並列にならんでいてどれが正史だっていうのは特にないってことね。この文章の中で紹介されていたBLOODの小説版である押井守の「獣たちの夜」がちょっと面白そうなので見つけたら買って読んでみようかなと思う。
漫画自体は自分の家が嫌いな今時の少女アキコと翼手を殺し続けねばならないという自分の運命に嫌気がさしている小夜とが対比的に描かれていてなかなか面白かった。
自らが愛されていないと思うアキコは家族と正面から向き合うことが出来ず、真夜中の街へ。しかしアキコの家族もそんなアキコの態度を真正面から受け止めることはなく、アキコが暴走族に乱暴されたという事件が起きてさえも、アキコと正面から向き合おうとはしなかった。その結果、血縁というもので守られていたはずの「家族」システムが崩壊する。一方の小夜はマヤから自らの呪われた血の真実について知らされ、葛藤するも、それを受け入れ、立ち上がる。どちらも自らの血、血脈というものを巡る物語だ。
人は血というものに縛られる。そしてその血という束縛から解放されたいと考えたりもする。この作品に登場するアキコもそのようなことを考える人間の一人である。しかし、それは大抵の場合血というものに自らが依存しているからこそ生じる考えなのではないだろうか。例えばそれは作品中で、家のことを愚痴るアキコに対してマヤが、「もう、家さー、出ちゃったら?」という質問をするとアキコは答えに窮してしまうシーンなどによく表れている。つまりアキコは血という束縛から解放されたいという本当に思っているわけではなく、単に「血という繋がりがあるのだから家族というものは自分にとって絶対的に味方であり正しいものでなければならない、居心地のいい場所でなければならない」という、血脈というものに対する盲目的信頼を抱いており、その血に対する絶対的な信頼を破壊してしまわないために(なぜならば血に対する信頼というのは自らの存在理由と深く関係するから)、逃避行動に走っているのである。こういうことは思春期と言われる年代には割とよくあることだと思われる。でも多くの場合、その逃避行動は自然と沈静化し、みないわゆる「大人」になっていく。言い換えれば、自らの存在理由を家ではない別の場所に見つけていく、ということだ。しかしこの逃避行動が何らかの理由でずっと続いた場合(アキコの場合は翼手の加担による)、自己正当化のための破壊衝動によって、家族という血縁に基づくシステムが破壊される。
小夜もほとんど同じような状況である。小夜は翼手と戦いながらも、いつまで続くのか…、と自らの運命に嫌気がさしており、それは組織に対する反発の態度などに表れている。しかしアキコと違うのは、小夜はマヤとの戦闘において自らの血と向き合わなければならない状況に追い込まれ、しかもそこから逃げ出すという選択肢が用意されていなかった、という点だ。そして小夜は自らの血を受け入れる決意をした。その結果、小夜は自らの血の束縛から解放され、新しい自分の存在理由を見出したのである。
血から逃げ続けたアキコと血を受け入れた小夜。コミックス右側の198pに真正面を見据えて不適に笑いながら立っている小夜が、左側の199pに虚ろな目をして体中に管を刺されベッドに横になって今にも死に行こうとしているアキコが描かれているのは、そんな2人の対照性をより際立たせている。
小夜の目はどこまでも真っ直ぐだ。おそらくその瞳の中にはこれから自らの刀によって切り刻むべき翼手の姿が映っているに違いない。
では、アキコはどうなのだろう。
彼女の虚ろな目に映っているのは、自分のことを「信じて」くれたマヤちゃんの姿なのだろうか、それとも自らが破壊してしまった家族の姿なのだろうか……