見えない道標

何かしねえとなあ、とか、そんな漠然としたことを考えながら学校に行ったり授業中に惰眠を貪ったりサークル行ったりバイト行ったり酒を飲んだりして今朝に至る。ちょっと思い出すだけでこれだけのことをやっているのだから、自分が忘れていることというものも含めれば僕は日々必ず何かをやっているわけで、っていうか何もしていないときなんて普通ほとんどないわけで、何かしねえとなあ、という呟きはそもそもあまり意味のない呟きのようにも思われる。「何か」って何なんだろう。知らない。よくわからない。でも、よくわからないけれど、僕は常にその「何か」という観念に囚われている。それに囚われているからこそ、日々、曖昧な不安を感じているのだと思う。この不安を何とかして払拭したい僕は、一体どうしたらそれを排除できるだろう?と、正体も分からぬものへの対処法をあれやこれやと模索するが、そんなことをしていると村上春樹の短編「螢」、その最後の文章が頭の中を過ぎる。

僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。
村上春樹「螢」より)

よくわからない「何か」というものが、ずっと手の届くことのない蛍の光と同じだとするならば、それについて考えるのは止めた方がいいのだろうか。考えるだけ無駄なのだろうか。先日読んだプラネテスという漫画の中で、ネイティブ・アメリカンの老人と若者であるユーリが話をする場面がある。

「ですから、ただ、僕は……道標が欲しいんです。北極星のような、明確で、疑いようのない……。自分の位置を知り、まっすぐ進んでいることを確認できるようなものを、求めているだけなんです」
(中略)
「HAHAHA。
お若い方、あなたは物事をなんでもはっきりとさせようとしすぎる」
幸村誠プラネテス」1巻より)

僕の知りたい「何か」というものが一体何を指しているのかはわからないが、でもその「わからない」というところに、僕の感じる不安の要素が含まれているようには思う。いや、むしろその「何か」よりも、「わからない」というものの方が重要な気もする。僕はわからないことが多すぎる。それゆえに若いときのユーリと同じように道標を求めてしまう。以前「わからないことをわからないままにしておく能力」なるものについてコメントでお聞きしたことがあるが、それについては確かにその通りだなあと思うけれど、それはすごく難しいことだと思う。でも世の中の全てを「わかる」ことなんて出来るわけがないのだから、ということは自分にとってわからないことというのは自分が生きている限り必ず存在しているということになり、それら全てに不安を感じるとしたら、死ぬまで不安なんて払拭されるはずがない。それはわかってる。そう、それは「わかってる」んだよ。でも……。
ここで「でも……」と思ってしまうのは、やはり僕がまだ老人に質問をしたときのユーリのように若いからなんだろうか。歳を取ったユーリが落ち着いたように、僕も歳を取れば落ち着くことができるのだろうか。こればっかりは歳を取ってみないとわからないけれど。