えーっと……

<ほんとうの自分>のつくり方 (講談社現代新書)

<ほんとうの自分>のつくり方 (講談社現代新書)

こういう本を読んでいるからますますドツボにはまっていくのだろうということはわかってるんですよ。だけどさ、だけどね。こういう本が好きなんですよ。みんな悩んでるんだねーあはは☆みたいな本が大好きなんですよ。ああダメすぎる。この本は一言で言えば「しっかりした自己物語を持て」という話。面白かったので感想を書こうと思ったのですが、もう時間がないので帰ってきてから書きます。
以下、6月6日追記。
この本はなかなか面白かったんですが、特にどのあたりが面白かったかというと、旅に関しての部分が僕の中では印象に残りました。まあ、一応旅サー所属ですからね。
「旅とは一体何なのか?人はなぜ旅をするのか?」これは割と色々な人たちによって考えられている問題です。僕は旅に興味があるのでそういう旅に関する記述で気になったものはメモってあったりします。例えば、文豪ゲーテは、人はなぜ旅をするのかという問題について以下のような解答をしています。

人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである。

なるほど、って感じ。なかなか含蓄のある言葉だ。確かに旅というのはゴールすることが目的ではなくてそこに到るまでのプロセスが重要だと僕も思う。例えば東京から北海道まで行くときに、自転車やバイクを使っていけば旅と呼べるような気がしますが、飛行機でビューンと1時間半ほどで行ってしまったらそれは旅と呼べないような気がします。
また、去年僕に最も影響を与えた人物の一人である大槻ケンヂは、著書『ボクはこんなことを考えている』の中で旅を次のように定義しています。

旅とは日常と異なる空間に束の間身を置き、そのことによって、日常を今までとまったく違った視点で見ることのできる、発想転換装置のような役割を持つイベント

これは僕が今まで抱いていた「旅」観とほとんど同じ。あくまでも「日常」というものが前提としてあって、そこで行き詰ったときに旅をすることで、自分(の視点)を変える。僕はそれを期待して旅サーに所属している部分が非常に大きい。でも、最近はどういうわけかサークルの旅があまり面白くありません。というか、あれは旅じゃないような気がします。今まではそれを旅だと思っていたのにもかかわらず。いったい、僕がこういう風に思ってしまうのは何故なんだろうか?
と、そんなことをここ最近考えていたんですが、この本の「旅」の部分を読んだときにその謎がある程度解けたように思いました。本文中に旅についての明確な定義部分はないのですが、要約すれば次のような感じになります。

旅とは、新たな自己の語りのチャンスを切望する人間による、聞き手を変更しようという試みである

これを読んで僕はポンと膝を打ちました。そうか、サークルの旅には「聞き手を変更しよう」という部分が決定的に欠けているんだ。サークルも3年目ということでメンバー全員と顔なじみなのはまあ当然です(1年生は除いて)。20人弱の小さいサークルですから。そうなるとそのメンバーで旅に行くと、全く聞き手を変更できていないということになるわけです。日常空間をそのまま場所だけ移動したに過ぎない。日常の延長線上に存在する旅。それはもはや旅ではありません。旅というのは大槻ケンヂも言っているように「非日常」において成立するものなわけですから。つまり、サークルの「旅」は、いまや僕にとっては「旅」ではなく単なる「旅行」になってしまっているのかもしれません。僕は「旅行」ではなくて「旅」がしたいのに。
と、この本のおかげで、なんで最近のサークルの旅が面白くないのか多少分かったような気がします。でもまあサークルの旅も実質あと1回だけだし、それが終わったら自分1人で「旅」にでも出かけようかな。休みをつかって。海外のパック旅行に参加するのもいいなあ。海外なら環境が圧倒的に違いすぎるから2〜3人で行ったとしても「旅」足りえるだろうし(1人で行くことに多少ビビッている自分を擁護する文)。ていうか海外行きたいんだ海外。ヨーロッパとか本当に行きたい。