趣味を「作る」

趣味には非常に苦労させられた。何の話かっていうと、履歴書の趣味の欄の話である。僕の行っている大学の履歴書はそれほど大きくはないが、できることなら趣味・資格の欄はもっと小さくしてもらえるとありがたかった。資格としてとりあえずTOEICと運転免許は書くのだけれども、残念なことにそれだけじゃ足りない。スペースが余ってしまう。それで趣味について考える必要が生じる。さすがに「ゲーム」とか書いたらあまりよろしくないだろう、ということ位は分かるので、「読書」だとか「サイクリング」だとか、一応今までそれなりにやってきたことを書いてみるのだが、正直、「趣味です!」と自信を持って言えるほど意識的に読書やサイクリングに取り組んでいるわけでもないので、なんか嘘をついているような気がして、書いた後、ちょっと嫌な気分になるのである。さらにはそれを履歴書の枚数だけ繰り返さねばならないのだ(ちなみに今数えてみたら、合計6枚の履歴書を書いていた。履歴書ではなく、履歴書っぽいESも含めれば10を超える)。別につきたくもない嘘をつき続けなければいけないというのは、結構辛い。
しかし。考えてみれば趣味というものは僕の認識では「ただ楽しめればそれでええやん」という種類のものであって(この点で「仕事」と異なる)、程度は関係なく、その事象が趣味であるか/趣味ではないか、という2択で答えられる種類のもののはずである。だから、自分で「これは俺の趣味だ!」と思えばそれは趣味になるし、どんなにあることが得意だったとしてもそれを趣味だと自分が思っていなければ、それは趣味にならない。はずなのだが。例えば、もし本を年に1冊だけしか読まない人に「はいッ!私の趣味は本を読むことですッ!」などと言われたとしたら、……うーん、と首をかしげたくなる自分がいることに気づく。つまり、僕は頭では趣味というものを「ただ楽しめればそれでええやん」的なものとして捉えてはいるが、その考えは僕の体に染みこんだ考えではない、ということだろう。そもそも、そのような考えが体に染みこんでいるのだとしたら、趣味の欄を埋めるときに嫌な気分になるはずもない。
そういうわけで、僕は趣味というものについて自分の中である基準を有していることが分かるのだが、困ってしまうことは、僕自身、その自分の中の基準がどれほどのものかよく分からないということである。ただ、「読書」「サイクリング」などと趣味の欄に書いたときに嫌な気分になるのだから、僕自身は、僕自身の中にある「読書」や「サイクリング」の趣味基準を超えていない、ということは分かる。僕は一体どのレベルに基準を置いているのだろうか。例として挙げている「読書」と「サイクリング」の基準について考えてみる。すると、「1年間で5百冊の本を読んだ」だとか「1年で2万キロ走った」といった具体的な数字を基準として考えているわけではなくて、ある知り合いの姿が頭の中に浮かんできて、ああ、あの人なら読書(またはサイクリング)を趣味と言えるだろうなあ、と、自分が考えていることが分かった。このように具体的な数字ではなく、具体的な人物を基準として考えているということは、僕は趣味というものを絶対的なものとして評価しているのではなく、他者との関係性の中から相対的に評価しているということになるのかもしれない。僕が頭で考えている趣味と、実際にこれまで僕が考えてきた趣味というものは、どうやら全く逆のものであったようである。そりゃ趣味の欄を書いていて嫌な気分にもなるわけだ。
となると、「では、果たしてどちらがいいのか?」ということになるのだが、やはり僕は頭の中で考えたように、「楽しめればそれでええやん」というものが趣味であると思う。だから、すでに体に染みこんでしまっている相対的な評価に基づく趣味の概念を捨て去りたい。どうすればよいだろう。おそらく、まず自分でひとつ、新しい趣味を作ってしまえばよいのではないだろうか。初めのうちは今までの考えによって「これは趣味ではない」と思うかもしれないが、それは意識的に無視して、取り組んでいく。そうすれば、いずれ趣味を作っている行為が自然なものになって、楽しい「趣味」になるのではないだろうか。そうなったときには、今まで僕が持っていた趣味の概念を捨て去ることができているのではないか。
そこで、今現在は色々な映画を観ることに興味がある&観ていて楽しいので、映画鑑賞を新しい趣味にすることにした。そんなことを考えながら帰宅していると、途中にあるレンタルショップが半額セールをやっていた。さっそく3本のDVDを借りてきた。面白い映画だといいなあ。