美しさとは何だろう(有吉佐和子「青い壺」)

確か少し前の伊集院の馬鹿力の中で、Eテレの100分で名著で読んだんだけど面白かったと伊集院が話していたのを聞いて買ってみたんだけど、しばらく積んだまま放置していた。2月の3連休で少し時間ができたので、読んでみた。

無名の陶芸家が美しい壺を作り、その壺がその美しさがゆえに様々な人の手に渡っていき、やがて再び製作者の陶芸家と巡り合う。その過程で人々の様々な人生模様が映し出されていく、という話である。

全体的にお金がらみの話が多いのが印象に残った。壺を手にするのは様々な人々である。金持ちだったり貧乏だったり、もともと金持ちだったが今はそうでもなかったり、もとからずっと貧乏であったり、まあいろいろあるんだけど、そんな様々な人々の手を渡り、時には盗まれたりもしながら、それでも壺は割れることなくその身に古色をまとっていく。美しい壺には様々な人の思いもこびりつき、そしてその古色の美しさをして、著名な美術評論家の目をも欺いてしまう。

シスター・マグダレナの話も印象的である。18で親元を離れ、その後日本に渡り50年近くに渡って修道尼として勤める彼女は、失敗をして落ち込む悠子を優しく包み込んでくれる。そこにはシスター・マグダレナの美しさが感じられる。しかし、彼女のその美しさは、彼女が彼女の母親の死に目に直面したことで失われてしまう。美しい幻想を持つことができてていたからこそ、彼女の美しさは維持できていたということなのだろうか。つまり、美しさとは脆くも儚い幻想なのだろうか。

いや、そんなことはないだろう、と思いたい。一時的にはそういうことはあれども、シスター・マグダレナが50年に渡って培ってきた美しさがそんなことでなくなってしまうことはないと思うし、彼女はまたその美しさを取り戻す日がきっと来るのではないか。

そしてまた、必ずしも裕福な暮らしをしているとはいえないシメがバラの美しさをただ楽しんでいるように、そしてまた、自らが生み出した美しい壺に出会えたことそれだけを喜ぶべきだと陶芸家が思い直したように、背景や状況とかそういうのは一切関係なく、ただただ美しい、という美しさもきっとあるのだと思う。

とまあ、そんなこんなで美しさについて色々と考えさせられる話であった。自分が生まれる前に書かれた話ということもあり、当時の感覚ってこんな感じだったんだなというのも色々とわかり、面白かった。