恐怖の大王が降りてくる!

24日の夜に地方に住む祖父の訃報が届き、それからお通夜葬式等一連のことを終えて今さっき帰ってきた。比較的新興住宅地に住んでいるのでお通夜や葬式なんて物心ついてから一度くらいしか経験したことがないのだが、その一度というのも小学校の頃のことなのであまり覚えてもおらず、今回のことはほとんど初めてといってもいいようなことばかりだった。儀式云々ももちろんそうなのだけど、それだけじゃなくて身近な人が死んでしまった、とか、そういうものも含めての話だ。
身近、とはいっても今では年に一度会うかどうかという感じだったし、正直あまり喋ったりしたこともなかったので、だからというのも変なのだけど、号泣するってほど悲しいというわけではなかった。それで周りの人が泣いている中僕だけがぼうっと突っ立っていると、そんな僕の態度に何か感じるところがあったのか、ある人に「悲しくないの?」と聞かれてしまった。いや、もちろん悲しいか悲しくないかと問われれば悲しいというのが正しいのだけど、でもそれは泣くような種類の悲しみではない。泣いていないと悲しくないとでも思っていたりするんだろうか。そんな勝手な判断を押し付けないで欲しい。とはいえ、自分の母親が泣いている姿を見たりするとそれはとても悲しくて、思わず泣きそうになるんだけど、でもその涙っていうのは故人のために流している涙ではないから故人に対して失礼だろう、と思って泣かないようにする。それに、そもそもああいう場では絶対に泣いては駄目だと思う。いや、別に他の人は好きに泣いていていいんですが、自分は絶対泣きたくない。泣いている姿なんて人に見せたくない。よく映画のCMで「感動しました」と言って泣いている人がいるけど、よくあんな風に泣けるよなあ。彼ら(大抵「彼女ら」ですが)は役者なのだろうか。役者じゃないとすれば、理念というか美学というか、そういうものが僕とは全然違うんだろうなと思う。まあでもこんなことを言っていても、自分の日常に入り込んでしまっているような家族や友人(少ないですが)がもし死んでしまったら、こんなことは言っていられないのかもしれない。幸運にもまだそういう経験がないので分からないけれど。
夜中に線香の火を絶やしてはいけないということで、夜中の2時頃からしばらくの間遺体の置いてある部屋に1人で居なければならないことがあった。バイト上がりの夜中に着の身着のまま連れて来られたのでほとんど何も持ってきていなかったのだが、着替え等を入れて持ってきた鞄の中にたまたま先日読んだ舞城の「世界は密室でできている。」と大学の友人に貸そうと思っていた同じく舞城の「熊の場所」が入っていたので、「熊の場所」を読んで時間をつぶすことにした。真夜中の田舎の町はとても静かだ。ほとんど何の音も聞こえない。時折遠くの道路を通り過ぎる車の低い音が聞こえるだけ。2時間かからないくらいで「熊の場所」を読み終えて、やることがなくなってしまう。物音を立てたら怒られてしまいそうな静寂のなかで、1人で遺体とともにいると、つい死という漠然としたことについて考えてしまう。まあそれは自然な流れなんじゃないだろうか。そうして僕は死のモヤモヤについて考える。
熊の場所の中に収められている短編の内の一つ、ピコーン!に登場する荒木一雄は言う。

「それにやね、やっぱりそうでなけりゃあかんっていう気持ちもあったんや。そもそも、やっぱり人間の死にはちゃんと意味がないとあかんやろ。人間無意味に死んだらやっぱ寂しいげや。ほんで俺はやな、その相手の人もこのままやと可哀相やで……」
舞城王太郎「ピコーン!」より)

この文章中の「意味」という言葉は、生きている人の感覚における「意味」であって、つまり死というものを生きている者の視点から評価しようとする立場をとっている。こういう風に考えている人は多分壮大な葬式を好んだり幽霊の存在を信じたりする人だろう。でも、自分が死んでしまったと考えたときに、そこに自分がいない状態で自分の死に対して意味が与えられたとしたって、それは自分にとって何ももたらさないんじゃないかと僕は思う。こう書いて自分で分かったことがある。僕は、死んだ後のことは結構どうでもよくて、今認識している自分が自分でいられる(と考えられている)最期である「死ぬ瞬間」のことについてどうやら問題にしているらしい。おお、問題が少し明確になった。
「死ぬ瞬間」ということについて考えようとして、昔ずっと死について考えていたことがあったことを思い出した。それは死という直接的なことについて考えたわけじゃなくて、ノストラダムスの予言を通して死というものについて考えたことである。
昔、多分小学校2年生くらいだったと思うのだけど、ノストラダムスの予言というものがそれはもう怖くて怖くて仕方がなかった。それを忘れているときは校庭でサッカーしたりドッジボールしたりして楽しく遊んでいるんだけど、一度思い出してしまうとそれに囚われてしまって何もする気がしなくなる。恐怖の大王とかありえないって。1999年に死んでしまうって分かっているのにどうして勉強なんてしなければならないの?(さくらももこの漫画「ちびまる子ちゃん」の中にノストラダムスの予言でやる気の出なくなるまる子が出てくる話があるけど、本当にあんな感じ)もっと楽しいことをしなければ勿体無い!でもどちらにしても死んでしまう、何でだよ!クソ! とか、そんなふうにノストラダムスの予言を決定事項として捉えて絶望していた。特にスイミングスクールに行く途中のバスの中でよくそのことを考えていた記憶がある。揺れるバスの中、西暦から逆算してあと何年で自分は死んでしまうのかとか考えて泣きそうだった。多分そのバスの中には友達もいなかったしそもそも水泳が嫌いで行きたくなかったから逃避としてそんなことばかり考えていたのだろうと思う。
でも、そんなノストラダムスに対する恐怖もいつのまにか忘れてしまって、僕は小学校を卒業して中学校を卒業して高校生になった。1999年。そう、恐怖の大王が降りてくる時がついにやってきてしまったのだった。僕はまた恐怖に覆われた。歳をとってちょっとだけ知恵がついて、恐怖の大王とは実は巨大隕石だとか大地震が起きるとかそういうことなんだと考えて震えていた。小学生の頃よりも死というものが近くなっている気がした。隕石が落ちて来るんだとしたらいっそ苦しまずに死んでしまいたいなぁ、とか、地震で地割れに飲み込まれて死ぬのだけは勘弁して欲しいなぁ、とかそんなことばかり考えていたら1学期は終わって、夏休みになった。7月も既に3分の2終わってしまっていた。七の月にくるという恐怖の大王はもうやってこないんだろうか。と思ったりもしたけど、いやいや恐怖というのは引き伸ばせば引き伸ばされるほど怖くなるものだからきっと7月の最終日に来るんだろう、などと勝手に思い、本気でビビりまくっていた。7月の最終日はテニス部の合宿だった。その年はとても暑い年で、気が狂ったように照り付ける太陽の下、クレーコートに舞うテニスボールを追いながら、「恐怖の大王が来る前に練習がきつすぎて普通に死ぬって」とか考えていた。で、そんな練習も終わって寝るときがやってきた。ゴキブリの出るような汚い教室で、机を並べてその上で寝る、という何とも言えない寝床だった。ああ、こんな汚いところが僕の最期の場所なのかと思って悲しくなった。もうちょっとマシな場所で死にたかった。ああ、もちろんテニス部の他の人間にはノストラダムスの予言が怖いなんてこと恥ずかしいから黙っているので、僕は一人でそんなことを思っていた。布団に入りながらこの後あと2時間くらいの間にどうやって死んでしまうんだろう、と考えた。どうやら隕石は落ちてきそうになかったのでやっぱ地震かなあ。このボロい校舎がガラガラと崩れて生き埋めになって死んでしまうんだろうか。あるいは、突然世界がゲームのようにリセットされてしまうのかもしれない。お、それは割といいかも。だって苦しまなくて済むからなあ。苦しまないでいいのならみんなも死んでしまうし死ぬのもしょうがないか……、とそんなことを考えていたらいつの間にか寝てしまった。
次の日。「次の日」がある時点で僕はかなり驚いていたのだが、次の日は何事もなかったかのようにやってきて、何事もなかったかのように僕はクレーコートの上でテニスボールを追った。やがて合宿は終わって家に帰って僕は何故恐怖の大王が来なかったのかと考えた。正直、信じられなかった。「いや、旧暦とか太陰暦とかでずれたりするからもしかしたら七の月というのは8月のことなのかもしれない」とか訳の分からないことも考えてみた。でも普通に8月も終わってしまって9月になって新学期が始まった。どうやら本当に恐怖の大王は現れないようだった。ノストラダムスは嘘をついたのだ。いや、そもそも予言なんてものが当たるわけもないのである。急に今までの自分が恥ずかしくなった。よし、こんなことは忘れてこれからは適当に生きよう、と決意して、とりあえずテニス部を辞めた。それから高校卒業までの2年半の間何もせずだらだらと過ごしロクに勉強してないので大学も受からず1年浪人してそれでも第1志望には結局受からず今通ってるダメ大学に進学し相変わらず何もせずにいつのまにか2年が経ってしまって現在に至る。
今振り返ってみると思うことがある。もしかしたら恐怖の大王はあの時確かに現れていて、僕のある一部分を奪っていってしまったのかもしれない。恐怖の大王が現れたその瞬間とは僕が死について考えることを放棄した瞬間ではないだろうか。そしてその奪われた僕のある一部分は今のこのときこの瞬間もあの暑い1999年7月31日の時のなかに閉じ込められているのではないだろうか。そこでは僕はまだテニス部に所属していていつまでも砂の上に飛び交う黄色いテニスボールを追い続けているのだ。今もなお来るはずもない恐怖の大王の存在に怯えながら……
――って、そんなことは全くもって思ってなくて、まあそれくらいノストラダムスの予言が怖かったんだよ、という話。……あれ、なんか初めの話の趣旨とずれているやうな。ああ、死だ。死について。こうやって誤魔化してしまうのはやはりあまりよろしい態度ではないと思われる。でも、僕がノストラダムスの予言で死ぬことを恐れていたのを恥ずかしくて誰にも話さなかったように、死ぬことが怖いことについて誰かに話すというのは恥ずかしいことだとされてますよね。その雰囲気というかその世間の見えないルールみたいなものこそ、僕は死から逃げる態度だと思います。よくない。だから、僕は中島義道が死についての恐怖をことさらに語る姿勢には共感を覚えます。まあ、もちろん彼の言動態度全てに共感を覚えるわけではないですが。
無駄に長くなってしまったしまとまりもないけど出かける時間なのでこの辺で。文章の序盤と後半のテンションの違いが我ながら何とも言えない……。まあ今日は自分が死よりも死ぬ瞬間というものを問題にしているとわかっただけでもいいか。自己満足!