天秤

ここんとこ、どうもまたぐるぐると憂鬱の螺旋を転げ落ちたり登ってみたりしている。何も考えなきゃいいんだ、と、そんなこと分かってるんだが、小生、馬鹿なのでそういうことをうねうねと考えてしまうのだ。無心になんてなれるのは悟りを開いた坊主くらいのもんなのだ。無心になれない愚かな一般人は一体どうすればいいんだろうか。
そういや、ここ数ヶ月の間にもこのぐるぐるに似たようなことを考えたような気がする、そんなことを思い、探ってみたら、今の考えと似たようなことを書いていた。3月頃に。こんな文章だ。

自分でなんかダメだなあと思うのは、「困った」とか言ってる割に実際は別に困っていない、つまり就職に対する危機感がまるでないということなんだよね。
「困った」と自分で言葉にすれば、それって真剣に就職活動に取り組めてることになるのでは?みたいな錯覚が自分の中にあって、「困った」とだけ言ってそこで終わってるという。そこから先へ思考が及んでない。
面接で緊張するというのも「落ちたらいやだな」というよりは、初めて会った人間に対してくだらない(非常に立派な)自己PRなどをすることが愚かで恥ずかしい行為に思えるからという部分のほうが強い。話にはまず順序ってものがあって、たかだか数十分でその人間のコアに触れられるわけねーだろうが、とか思ってしまう。馬鹿だから。
とかぐだぐだ言ってると、就職が上手くいかなかったときのための予防線(いいわけ)をあらかじめ張ってるんだろ?などと自分で思えてきて嫌になって、で、そうじゃない!と思って積極的に動いてみると、また実際には困っていない自分に気づく、という。そんなループ。だから反省しているようで、実は全く反省していないという状況が訪れる。

そう、僕は、ほんとに何に対しても「危機感」がなさすぎるし、いいわけが多すぎると思う。たるんどるッ!(←リスペクト真田)というか、自分の行動の何もかもがいいわけのような気がするぜ。僕はいいわけで出来ている。ヒーイズメイドアウトオブいいわけ。なんか何気なく三人称を使ってしまったが、自分のことなのに自分のことであるような気がしないので、どこか遠くのことに感じられるので、つい三人称を使ってしまったんだろうと自己分析。
あと、何にでも無理やりにでも価値を見出そうとしてしまうような自分にも腹が立つね、これまた。例えば、行きたくもない授業に嫌々ながら出席しつつ、夢うつつ、授業を受けてると、たまに、ごくたまに、なんか面白そうなことが聞こえてくることがある。そういうのを聞くと、「ん?これはちょっともしかすると何かの役に立つかしらん。メモっとこう」そう思ってノートを開き(全日全科目が1冊に集約されている実に合理的なノート、そう、今年からついに小生はノートをとり始めたのだ!)、書き留めるのだが、そのとき、ハッとして、「そんなものからも何かを得ようとしている自分は何て安っぽい人間なのだ!」と思い、恥ずかしくなって、馬鹿馬鹿しくなる。しかし村上春樹の「風の歌を聴け」の中にもあるように

もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
村上春樹風の歌を聴け』より)

なのであり、それはもっともで、僕もそのような姿勢で面白可笑しく生きていくべきであらう、なんてことはしばしば思うのだが、けれど、それってあらゆるものを重視しているようで実際は何も重視していない、むしろ、全てを軽視しているからこそそういう姿勢をとれるのだ、などと、そう思ってしまうことがある。あらゆるものを馬鹿にしすぎだろう、と。失礼すぎる。どれだけ貴様は偉いのか、と。そう自分に問いかけてしまうのだ。それで恥ずかしくなるのだ。
何かに対してそういうフィルター(例えば、何にでも価値はあるんだフィルター)をかけると、世の中はきっと霞む。薄くなる。そんな果汁1%オレンジジュースのような薄っぺらな味の世界で面白可笑しく生きるんだったら、まだ、糞だ糞だ、とかいいながらも、100%の世界で果汁100%のオレンジジュースを飲んでいた方がよいのではないか、などとそう思うのである。
であるけれども。そこまで思い切れる勇気がないので僕はぐるぐるしてるのだ。いいわけをしてしまうのだ。いつまでも天秤の真ん中に立っていたって何にも変わらないし、どちらかの皿の上に乗るべきだと思うのだが、天秤が傾いて皿に乗る前にバランスを崩して下へ落ちてしまうのが怖くって、結局判断を保留して、いつまでも天秤の真ん中に突っ立ってる。何にもわからないまま。
我ながらマジどうしようもねえ穀潰しの糞野郎だな、と思う。