夢破れて山河無し

先週からずっと今日のこの日が来ることを僕は楽しみにしており、期待に胸を小躍りさせながら日々生きてきたのでありますが、その夢は夕方頃にもろくも崩れ去ってしまいました。奇跡というものは起きないから奇跡と言うんですよ、と、僕が昔好きだったゲームに登場する、愛すべき可愛らしい病弱少女は言ってましたけれども、夢というものも叶わないから夢と言うのかもしれません。
先日、朝日新聞に掲載されていた糸井重里のコラムのなかで夢が取り上げられており、どのような内容かというと、大きい夢を語るのと比較して小さい夢を語ることというのは大人に批判されがちであるが、小さな夢のほうが本気度は高い、というようなものでありました。糸井重里のコラムで例示されていた小さい夢というのは「(野球で)市の大会の予選に出場できますように」というものであったのですが、それを夢と呼びうるのかどうか、正直微妙だなあと僕は思いました。さきほど挙げた病弱少女の言葉を借りるわけではありませんが、やはり夢というのはそう簡単に叶うものじゃいけないという気がします。そうじゃなければ夢というものの権威が失墜してしまう。しかし、かといって全く叶わないような夢を希望するというのも、糸井重里の言うように、叶えようという本気さが薄くなってしまう、と思われるので、だから、普通にやっていたらまず叶わないだろうけれど、でも、もしかしたら叶うかもしれないというような境界線ギリギリの事象を、夢に設定することが望ましいのではあるまいかと僕は思います。あるいは中島義道が言うような、物質的価値を目的とした夢ではなく、日々をよく生きる、ということを、夢だとするのもありなのかもしれません。ただ、日々をよく生きる、という夢はあまりにも漠然としすぎているので、これを糧に頑張ろうと思えるようになるにはしばしの修練が必要だと考えられます。僕のような俗物は残念ながらまだそのような境地には至れていません。解脱までの道のりは遥かに険しい。
しかし最近は、というか、ちょっと前から、大きな夢を語る、ということは何か恥ずかしいことであるように僕には感じられます。大きな夢を言うと、叶えられないものを何切望してんのキミ?みたいな態度をとられて馬鹿にされるのが嫌だと思って、結果として本心を語らなくなる。それで現実的なことを夢に設定してしまう。それを本心から望んでいなかったとしても。どうして世の中こんな雰囲気になっているのでしょうか。病んでるね。そういえば、僕が小学校の時に卒業文集に将来の夢を書く欄があったのですけれども、そのなかに「東京大学合格」とかマジで書いているヤツがいて、正直、僕は引いてしまいました。小学校6年生が東大合格とか言ってるんですよ? なんかそれを見たときテレビゲームばかりやっていた当時の僕ですら、つい哀しくなってしまいました。けれども、ではお前は夢に何を書いたのかと問われますと、答えに窮するばかりで、何とも言えないという。一応僕は、「宇宙に行く」という実に小学生的な素晴らしい回答をしたのでありますが、一応、という譲歩があるように、これには裏というかそういうものがありまして、「宇宙に行く」というと人はみな宇宙飛行士をイメージするのだろうと想定されますが、僕の考える「宇宙に行く」というのは全く持ってそういうものではなく、僕が老人になった頃にはおそらく宇宙旅行というものがある程度一般化しているであろう、よし、そのときになったら宇宙に行こう、というものなのです。ああ、我ながら終わっている……。小学生的な回答を提示しておいてそこからの逃げ道も用意しておく、なんてウンコ野郎にも程があります。やはり中途半端に学校の勉強が出来るとちやほやされて、結果として人間ひねくれてしまうので、小学生のうちは勉強なんてしなくていいから遊んだほうがいいと、そう思います。僕も、あのとき純粋に「宇宙飛行士になりたい」とか、そういう夢を抱くことの出来るような小学生だったならば。少なくとも、今のような腐った状況にはなってはいないのではあるまいか。そう思わずにはいられない、今日この頃。
ちなみに、冒頭の、今日崩れ去った夢というのは何かと言いますと、ドリームジャンボがハズレていたということです。ああ、悲しい。実に悲しい。オロローン。まあ、叶わないから夢というんですよ、うん。